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 79.新宿通り 最終回
 四谷駅から新宿に向かって4,5分歩いて左に曲がる。...
そのころあった文化放送の前を通って坂を下る。若葉町の
通りを左に曲がってちょっとの路地を入って、もっと細い
路地に入って、自転車の幅よりほんの少し広い隙間に、
俺の部屋の入り口があった。大家さんはとても親切だった
けど日当たりはゼロ。風呂もなければ、便所は大家さんのを
使うので、まるっきりの下宿だが、不動産屋ではアパートに
なっていた。安さと、引っ越しに使った車のP510を停めた
神社の下から100メートルも離れていなかったので決めた
部屋だった。部屋の前に脱いだ下駄に、猫がおしっこをかけて、
どうしても臭いが取れず捨てたりしたが、かなりお気に入りの
部屋だった。お金は相当な余裕があったし、しばらくは
のんびり散歩の毎日を過ごすことにした。文化放送の
植え込みには、毎日猫のための餌が置いてあって、日課に
しているおばあさんが放送で取り上げられたりしていた。
その前の坂を登って新宿通りに出る。右に曲がれば四谷見付、
左に曲がると新宿方向。上智大学と四谷駅の間にある土手の
ベンチで、また朝は新聞を読む。迎賓館のフェンスは
そのころは錆びたままで、庭もボウボウになっていた。
朝早く歩くと門の前の道を雉が歩いていたこともある。
若葉町から権田原の坂に抜けると、目の前に赤坂御所の門が
あって、朝は時々、誰かが学習院小学校に通学するのを
見かけた。短い距離の坂を車で行くのだから、宮様には
違いないけど誰だかは知らなかった。夜は四谷見付け近くの
イーグルに行く事が多かった。ジャズレコードをかけている
コーヒー屋さん。四谷船町の喫茶店ルビアンや、新宿通
四谷3丁目近くのサテンドールという名前のスナック、
新宿駅東口の日本中に有名だった喫茶店風月堂、風の字が
違ったけど。新宿2丁目だがオカマ街から少し離れた
ロックの茶店、サブマリン。うろうろしながら1年が過ぎ、
お金も減ってきたので、新宿1丁目の花市場に、通りすがり
飛び込んで就職18年間もいた。その間、赤坂プリンスの
プールに、毎年5月の末から9月のはじめまで、7シーズン
通った。ずいぶん気ままな人生がのんびりと過ぎていった。
 78.晴海入港
 1年半の俺の航海は終了しようとしていた。半年ほどの
つもりが3倍になって、会社都合の退職という事になり
もらえないはずの退職金もたくさんくれるという。
清水の港で乗船する事になったときの給料が、降りる
ときには3倍以上になっていたし、自転車で走り回った
だけなのでお金をあまり使わなかったからか、
なんやかやと結局、そのころ都内でも中古住宅なら買える
金額が残った。
皿洗いが1年半でそれだけもらえたのだから、船員は待遇が
良過ぎたのかも知れない。おまけに保険とセットの
そのころの年金は、一般の厚生年金とは別勘定だったので、
船員保険から厚生年金へ移ると、加入期間を150%で
計算してくれるというおいしい話もあった。おかげで、
その後の人生を遊び過ぎて、年金加入期間が65歳までで
25年に満たないとの社会保険庁からのお知らせに、
「間違ってるぞ、ばかやろう」と言うことが出来た。
東京湾の黄色と草色と土色を混ぜたような海の色が、
懐かしくて帰ってきたぞという思いをくすぐった。
カナダで買ったエアピストルを海に捨て、税関に申告する
べき品物をリストアップした。ウイスキーも時計も金製品も
何も買わないしリストに書くような物はほとんどなかった。
俺以外の船員はデッキにずらりと並べて、入港後に
乗り込んで来る税関職員に備えていたが、ブルーフィルム
なんかはどこに隠したのだろう。本船はブラックリストに
載っていなかったので、船室まで調べられる事はない
だろうと言っていたし、実際にすぐ終わった。
船は空っぽにして良いとの船長のお言葉に従い、まかないで
使っていた牛刀をセットでもらった。コック長はやばそうな
包丁を含めバッグ一杯の刃物を持っていたので、船の備品の
包丁なんかいらないようだった。食い残した牛肉も何キロも
詰め込んで、新品のシーツとか色々自転車に載せた。
お別れのパーティーも何も無しで、ごく普通にみんな下船
していった。俺は自転車をこいで晴海から四谷までちょっと
登りの道を1時間少しで帰った。清水や下田でなくて
良かった。大家さんに軽く挨拶して、何気なく次の一日が
始まった。
 77.山盛りユッケ
 アラビア湾からインド洋に出たあたりで、
アブダビだったかでキャンセルになった冷凍肉を
海に捨てた。岸壁で温度が上がってしまいキャンセルに
なっても、捨てればOKという納得のいかない処理だったが
おこぼれはいただいた。ダンボール箱のままネットに入れて
クレーンで船倉から出して、動いてる船から
ドボドボとレッコ。何百トンか知らないが、何十キロかを
捨てなくても何の問題もない。それで上等のフィレ肉や
サーロインを日本に着くまでに食べられる量を確保、
船員の食料用の冷蔵庫にしまった。早速一番高級な
フィレ肉で、コック長がユッケを作った。作ったと言っても
解凍して刻んだだけの生肉だから、作ったのはニンニクの
タレの方だ。俺は初めて生の肉を食ったが、うまかった。
本当にうまかったので、どんぶりに山盛り入れて一気に
食った。真夏のインド洋はギラギラと気持ちよく太陽が
照りつけ、風も爽やかで、船尾にあるロープを巻き上げる
機械の上に座って、冷たい肉を食った。そして予想通り
思いっきりお腹を壊した。あんなに食っても
太ることはなかった。そういえば最初の航海でアフリカから
日本に戻るとき、やはりインド洋で船倉から積み荷の
キハダマグロをいただいて食った。肉はキャンセルになって
保険のために捨てる物だから、それほど悪くはないと
思ったが、まぐろの場合はは犯罪だと思った。
零下20度以下の冷凍庫はファンの運転中は入れないので、
何分か止める必要がある。船長の要望で機関長が
エンジンルームに指示して、制御板のファンのスイッチを
切った。コック長の指示で、俺が点検用の煙突みたいな
縦のハッチを降りて、何本かのキハダマグロをデッキに
上げた。2000トンだかのマグロの中から何本か減っても
全く問題がないことは理解できても、モラルとして、
海の男らしくないなとか思いながら、やっぱりうまかった。
ギャレイの横に自然解凍のため転がしてあった1本は、
いつの間にかお腹だけ切り取られてなくなっていた。
ワッチ明けの誰かが、酒の肴にかっぱらったのだ。
泥棒から泥棒するなんて、結構楽しいインド洋だった。
 76.売船
 アラビア湾を出て、どうやら内地に帰れるようだ。
空荷で帰るのは普通じゃないと思ったら、売船らしいと噂が
広まった。バイセンというのは船を韓国とかの外国に
売ることだ。日本籍の船には給料の高い日本人しか
乗れないので、外国籍にして、安い船員を乗せるというのが
そのころ流行になっていた。便宜置船と呼ばれて、
なぜ日本海員組合はそれを認めたのか俺は不思議だった。
外国に売られて母港の変わった船をそのまま
チャーターバックして同じ仕事をするのだ。
船長と機関長は日本人で、オフィサーは韓国人、
その下の乗組員は東南アジア系の人という民族差別の元に
運行される船が増えていた。まあ俺は予定を遙かに超えて
1年半も乗っていたので、売船でもなんでも
帰れれば良かったが、ちゃんとした船員の人には大きな
問題だろうと思った。だけどみんな、
なぜか普段通りだった。それよりも局長の説明によると、
通常俺の場合期間が短いので退職金は無いのだが、
本当は日本に帰れば下船するつもりだったとしても、
今回は会社都合の退職になるので、いくらかもらえると
いうことだった。外国航路の場合、内地を離れて
7ヶ月目に10%プラス、8ヶ月目は20%プラスと
本給が増えて、残業手当の単価も上がるので、
1年たつと給料が倍になるというすばらしいシステムが
あって、俺の給料もなぜか下船するときは最初の3倍ほどに
なっていた。船主が売船したくなるのも当然かと思った。
日本海員組合は、自分の首を絞めてしまったのかも
知れない。インド洋を東へ、真夏の日本に向かって歩く
船の舳先で、吸い込まれていく海を見ながら、彼女に、
貨物船に乗って外国に行く事を知らせる必要があると
思いつきもしなかった自分をちょっとだけ反省していた。
 75.生搾りオレンジ
 バーレーンのバザールを歩いた。
西田佐知子のコーヒールンバ(ほんの50年ほど前の歌)
に出てくるアラブの街なら、ここが一番合っているように
思った。たぶんあれがシシカバブと思える肉も売って
いたが注文の仕方が分からないし、ちょっと近寄り難い
雰囲気もあって結局食べなかった。オレンジを半分に
切ったのを絞り器でジュースにしてコップで飲ませて
くれる店があった。目の前でレモン絞り器の大きめの
道具のレバーを下げて、1個分を絞る。クラッシュアイスの
品質に若干の不安はあったが、おいしそうで安かったので
飲む事にした。不安はない方が良いので、ノーアイスと
言ったら、この英語は通じたらしく氷なしで入れてくれた。
当然1個分で、氷のない分ジュースが少なく見えると
思ったら、彼の判断ではと言うかアラブ式の考え方では
見かけがとても大事なので1個半を使ってすりきりにして
渡してくれた。もうかったと思ったが、彼は損したと
思ったらしく、マジにいやな顔をしていた。
どこから持ってくるのか野菜や果物がとても豊富で
安かった。アメリカのと同じで赤くてでかいサクランボを、
袋いっぱい詰めてもらって船に持って帰って一人で食った。
洗面器一杯あったが一度に全部食べたら、やっぱり、
またお腹を壊した。次の日もう一度バザールに行って、
ノーアイスをやったら、同じお兄さんだったので、
うんざりとした顔で手際よく、1個半オレンジ生搾り
ジュースを作ってくれた。あの嫌々の顔がなかなか
お気に入りとなったが、出航したので3度目はだめだった。
 74.バーレーン
 バーレーンはUAEの首長国のようにいきなり作った
感じはなくて、落ち着いた街だった。自転車で街を
通り抜けると浜辺に出た。久しぶりの砂浜で、
落ちていた袋に砂を詰めた。高尾やセブでは岸壁だけで
砂浜には行けなかったが、次のケープタウンでは喜望峰の
砂を拾ってきた。その後の港では、出来る限り集める事に
していた。アラブでは砂漠の砂も拾ったが、浜辺の砂は
初めてだった。検疫を考えると日本に持ち込むのは
違法だと言うことは法学部出身でもあり知っていたが、
あまり気にしていなかった。砂浜に座っていると、
欧米系の白人の家族がやってきて、こんな所にいる
東洋人は相当珍しかったのか、にこにこと話しかけてきた。
そして我が家でお茶をとなって車に乗せてもらった。
日本にある米軍基地の家族が住んでいる家のような白い
平屋の家で、途中にあった地元の人の家とは全く違った
雰囲気の家がぽつんと建っていた。広いリビングには
ソファーとテレビがあってそれは普通だった。みんなが
お茶のカップを持っておしゃべりしていたが、
俺の英語では何分ももたない。そこで俺のお相手は
10歳くらいの息子が担当することになったようだ。
彼はカトゥーンの本とかおもちゃを持ってきて、
一生懸命ホスト役をこなそうとしていた。年齢設定が
間違っているような気もしたが、彼らの家族の中では
一番近い年齢だったのだから仕方ないか。
欧米文化ではこんな小さなときからホスピタリティーの
修行があるのかと感心はしたが、つまらなかったので
早めにお暇した。
 73.イスラムの異端
 クウェートではそのころ、若いお兄さん同士が手を
繋いで歩いているのをよく見かけた。
国籍を持っている人はみんなセレブなのかと思っていたが、
結婚するには沢山のお金が必要で、大金持ちが複数の
奥さんを持てば、当然あぶれる男がいるわけで、そういう
事情で男同士が多いのだという意見もあった。
戒律が厳しくない、というのはどこまでなのか
よく分からなかったが、お金で買えるエッチがあるという
情報があった。それを真に受けた甲板員一名が、
街にタクシーで出て行った。いくらクウェートでも
イスラム国なんだから大きな危険を覚悟してまで
行くことではないと思ったが、社会的な地位まで失っても、
のぞきを止められない人もいるのだから仕方がないのか。
彼は免許取り消しで運転手が出来なくなって船に乗った人
だったから、無くして困る物も無かったのかも。
彼は半日ほどして戻ってきたが、片目の周りが腫れていた。
話によると、教えられた住所に教えられた名前の場所は
あったそうだ。彼はそこで、土産物屋と同じように
アラブの習慣にならい、値切ったのだそうだ。
それで殴られて追い出されたという事だったが、
それだけにしては時間がかかり過ぎたように感じた。
帰れるまでに相当苦労したのではなかったかと想像できた。
そのころ何気なく大して気にも留めなかった事が、
ひょっとしたら大事件の可能性もあったかと思うと、
世界中で毎日起きている色んな出来事の中で、世間で
知られるようになるのは、たまたま目にした流れ星
みたいなものだと今思う。
 72.クウェート
 国際石油資本が無理矢理作ったと聞いたことがある
クウェートは、アラブの中ではかなりヨーロッパ文化の
影響が強いと感じた。中東戦争のときも王族は全員
モナコで遊んでたそうだし、女の人が色の付いた服を
着て顔を出して道を歩いていたりするのだから、異色の
イスラム世界ではあった。お酒はもちろん禁止だが
外国人なら飲んでも良い場所があるという事だった。
けれど禁酒法時代のアメリカのように、ここには立派な
裏があると言うことで、買い出しのオヤジが本船に
やって来た。コック長がシンガポールで仕込んで野菜庫の
奧に隠していたジョニウォーカのケースは、このため
だったのだ。どういう情報の流れか知らないが、
話は出来ていたのだ。太ったアラブ人のオヤジは、なぜか
砂漠の国で西側風の大きな上着を着ていた。ギャレイで
上着を脱ぐと、新聞紙をボトルサイズに丸めたダミーを
お腹の周りにぐるりと巻いてガムテープで留めていた。
ダミーをはずしてケースから出したジョニ黒を新聞紙で
くるんでから、またお腹の周りにセットして帰って行った。
かなりやばい犯罪だったと思うが船長は知っていたの
だろうか。彫りかけの刺青があるコック長がどれだけ
もうけたか知らないが、ばれたら本船だけでなく
外交問題になったはずだが、そのころはあんまり
気にはしてなかった。
 71.ドバイの砂漠
 肉を下ろしながらドバイに入港した。そのころの
ドバイは、空港だけがやたら立派な、作っている途中の
街だった。まだ空港ビル以外にはでかいビルは無くて、
自転車で走っても見物する所はあまりなかった。
空港の展望台で飛行機と砂漠を見比べていると、東洋人の
若いお兄さんが英語で話しかけてきた。日本人かと英語で
聞かれて、そうですと日本語で答えたら、すごくうれし
そうに一気に話し出した。何をしゃべったか忘れたが、
彼は日本語に飢えていたようだった。観光旅行のとき、
外国で日本人、特に関西弁は避けるようにしているが、
そのころのドバイでは住んでいる日本人なんか多分
ほとんどいなかったはずだから、彼は空港に時々
日本人捜しにやってきて、やっと俺に会えてうれしかった
のだろう。空港で予想外の時間が過ぎて、船に帰ろうと
したら夕方だった。自転車で港を目指して走ったが、
道路標識なんかは無い。というかだだっ広い平面砂漠に
いきなり道路を縦横に引いた街だから、目さえ良ければ
地図を見てるように全部見える。1キロか2キロ先の
平行する道路の外灯がつき始めたのが見える。
俺の走るべき道路は海に近いあっちの方なのに、
間に砂漠があって行けない。横に走る道は外灯が無くて、
前が近いのか後ろが近いのか分からない。引き返すよりは
前進が男の道だと、そのまま走った。車には一度も
会わないし、もちろん歩いている人がいるはずもない。
あっちの道の明かりを見ながら走っていたら、
突然ブレーキがかかってひっくり返った。砂漠の砂が
風で道路にはみ出していたのだ。幅3メートルほど、
長さ15メートルほど、波のように砂が10センチほどの
厚さでおとなしく積もっていた。自転車も俺も被害は
なかったので、砂の上を自転車を担いで歩いた。
前進は正解だったようで、すぐに十字路に出て港まで
まっすぐ帰る事ができた。
 70.P510スリーエス
 アブダビもドバイもタンカーは港には入らない。
何十万トンの船が接岸できる設備はその頃の港には
なかったので、沖合何百メートルかの、海の中から
突然現れたような、大きな蛇口にタンカーの蛇口を
つないで給油するという事だった。タンカーの船員は
上陸しないという話だったので、日本を出てから帰るまで
結局ずっと海だけの生活なのだろう。だから出光で女性の
船員を乗せたら、最初の航海で全員結婚が決まってしまい、
一度だけの試みに終わったような話だった。
アブダビの港で街を歩いた。狭い地域に人と店とが
凝縮された活気のある雰囲気のある街だった。
アラブを想像するイメージを裏切らない人混みがあった。
一人で歩いていると、2,3人の若いお兄さんのグループが
英語で話しかけて来た。空港で働いていて、外国に興味が
あって日本も好きだと言った。街を案内してやるので
一緒に来いと言う。ちょっとやばいかなと思ったが、
盗られる物も持ってないし、俺はどう見ても金持ちには
見えないので、よほどの馬鹿じゃない限りターゲットには
しないと思ったので、ついて行った。少し離れたところに
車を置いていた。なんと俺が乗っていた、
ブルーバードSSS、P510だった。俺が以前持っていた
車と同じだと言ったら、ベリーナイスカーと言って、話が
弾むところだが、複雑な会話はお互いできないので、
その件についてはニコニコして終了。本当にあちこち
案内してもらって、何かご飯をおごってもらったように
思うが何を食ったか覚えていない。自分と同じ白いSSSに
外国の港町で出会った偶然の印象がちょっと強すぎた。
 69.フィレ肉をレッコ
 アラブで最初の港はどこだったか忘れたが、たぶん
UAEのアブダビだったと思う。船のチャートで見ると、
アラブ首長国連邦はアブダビやドバイの境界の線が海岸から
引かれていたが、砂漠側はサウジアラビアとの境の線が
なかった。砂漠は海だから国境線は意味がないのかもと
思った。船舶用の地図だから内陸は省いてあるのかとも
考えたが、オフィサーはそんなことないと言っていた。
その港でフィレ肉を何百トンか陸揚げした。引き取りの
貨車の時間に合わせて岸壁のパレットにクレーンから
下ろした荷をステベドウが積んでいく。本船はバラ積み
だったので、港では必ずその港の荷運び作業員である
ステベドウのお世話になった。彼らを束ねる欧米系の
白人のお兄さんが、ブリッジで作業を見物していた俺に
話しかけてきた。本船では船長もオフィサーも誰も
制服を着ていなかったし、映画のマドロススタイルなんか
見たこともなかった。つまり服装では階級が分から
なかったので、一番背が高くて姿勢が良い俺はオフィサーと
間違われたのだ。話しているうちに俺が
ディッシュウオッシャーだと言ったので、彼はとても
がっかりして、悲しそうな背中を見せて岸壁へ下りて
行った。引き取りの貨車はアラブ時間で着いたために、
岸壁の冷凍肉の表面温度が規定よりも高くなってしまった
そうだった。すべてがキャンセルになり船倉の冷凍庫に
戻された。これは保険で処理されて誰も損しないとと
言うことだった。ただし持って帰ると保険が下りないので、
外洋で捨てると聞いた。そのころはタンカーが原油の
混ざったバラスト水を海に捨てたりしていたので、
魚のえさになる牛肉は海に捨てても問題なかったのだろう。
海に捨てる前に、船員用の食用チャンバーに入るだけ
何ケースも特に高級なのを選んで、内緒でいただいた。
航海中、どんぶり山盛りで最高級フィレのユッケを
生まれて初めて死ぬほど食ったら、おなかを壊して
死にそうになった。
 68.インド洋のゴミ
 オーストラリアを出て冷凍牛肉を満載してアラブに
向かった。インド洋を横切ってまた紅海に入る。
のんびりと天気の良い海と空だけの世界を何日か
過ごした。毎日昼休みはオモテの先で足をぶらぶら
させて舳先に吸い込まれていく海を見ていた。
そんなどこまで続くかと思うほどの広い海の上にも
ゴミは浮いていた。プラスティックのボトルか、ポリ袋が
たまに目についた。環境汚染や産業廃棄物も温暖化も何も
叫ばれていなかったが、足音はかなりでかく聞こえていた
ようだ。毎日海を見ながら、それまでの行った港を
思い出していた。日本の港と比べるとどこも
相当いいかげんだったが、台湾の高雄だけは違った。
そうだセブの港に入る前、本当の最初はカオルンだった。
俺が乗船する前の年、釜山では本船に船員の
ステレオセットを売ってくれと来たやつがいて、
しつこいので売ってやると次の日、税関の職員というのが
やってきてお金を持って帰るという詐欺があったそうだし、
セブでは税関の見張りが時計を売っていた。しかし高雄では
時間は正確だし、税関職員のたかりもなかった。ほとんど
日本と同じで、最初の港がそうだったのでセブは
ビックリしたし、高雄が日本ではなかったことを
忘れていた。オフィサーが一日だけの奥さんを手配した。
車が岸壁の本船にやってきて、彼は市内に彼女と
ボーリングに行くというので便乗することにした。
車を運転していたのは彼女の本当の旦那で、二人とも
ニコニコしているし後ろめたさなんか全くない。この辺は
日本と違うなと感じたが、港だけの特別ルールかも
知れなかった。高雄を出て、セブに入り、
次はシンガポールにも寄った。ここで俺は船食から
オレンジを2ネット買った。1ネットが20キロか30キロ
あって、ひどく安かったので欲張ったが、全部食い
終わったら唇が切れていた。コック長はここで
ジョニウォーカーを何ケースも買っていた。
赤が1本700円、黒が1000円前後で12本入りの
木箱だった。そのころの日本国内の10分の1ほどだったと
思うがボトリングはシンガポールと書いてあった。
船内では赤とサントリー角、黒とオールドが正式な
交換レイトだった。航海が長くなると相対的に内地の物は
高くなるようだった。
 67.ディスコビル
 ディスコに行ったのはメルボルンだったか、
フリーマントルだったかはっきりしないが、
オーストラリアには違いない。お金を払うと紫外線で光る
透明スタンプを手の甲に押してくれるので、
出入り自由だった。4階建てくらいで広くないビルが
一つの店になっていた。1階がバーカウンターで
フリーの飲み物を持って上の階に上がる。
2階がディスコで、その上に俺は行かなかったが、
ビリヤードやダーツがあるみたいだった。俺以外の船員は
皆ストレートエッチが専門で、ディスコに誘っても
誰も来ない。一人でこんな所に来る奴はあまりいないので、
かなりぎこちなくなくなってしまう。みんな若かったが
カップルは意外と少なく、ひょっとしたら出会いがあるかも
知れないくらいの感じで、男女別に何人かのグループで
来ているようだった。日本では、大阪の梅田にあった
アストロメカにクールという店に何回か行った事があった
程度で、あまり踊れなかったし一人ではボケーとするしか
なかった。丈の短いサブリナパンツと呼ばれていた
スラックスに、白い薄手の綿でやはり短いブラウスを着た
女の子と目があった。ノーブラの胸がビックリするくらい
突き出ていて、ラグビーボールを半分に切って左右に
くっつけて、先っぽにドングリ付けたみたいで、
ひどく眩しかった。ブラウスの胸から下はのれんみたいに
ひらひらして宙を舞っていた。にっこり微笑んでくれたのに、
俺は何もできず、ボケーを続けていた。あのときハーイの
一言でも言えてたら楽しい何かがあったかもと、
その後しばらく悔やむことになった。
 66.女性のタクシー運転手
 助手席に客が座るという噂のタクシーに一度乗ってみる
ことにした。郵便局へ国際電話をかけに出かけた。
フリーマントルの岸壁から街の中心まで自転車でも行ける
のにわざわざタクシーに乗ったのだ。なぜ客一人の場合は
運転手の隣の席に座るのか諸説あって分からない。
オージーはフレンドリーなのだ説を採用しておくことにした。
通りかかったタクシーに乗ると、運転手は若目の中年女性
だった。そのころの日本ではあまり女性運転手は聞いた
ことがなかったので、とても新鮮だったが、隣には座り
づらくて、後ろのドアを自分で開けて座った。自動ドアの
タクシーは日本以外で見たことがなかったので、どちらに
座るかは客の選択になる。国際電話をかけるために一番
大きなポストオフィスに行きたいと言うと、にっこりイエスと
だけ言った。後ろに座ったせいか、日本人だったからか
事前情報に反して彼女はあまり話しかけてこなかった。
小さな街だからすぐに着いた。チップは不用説とやっぱり
必要説があったが、感じの良い人だったので50セント
渡した。するとやたら喜んで、サンキューの嵐がふいた。
オーストラリアの50セントは八角形でエリザベス女王の
横顔の入ったでかい硬貨なので、おみやげにと貯めて
いたから、俺としてはがんばってあげた値打ちがあった。
郵便局の中のデスクの上に、60センチ四方で高さが
15センチほどの大きな電話機があって、それを自分で
勝手にダイヤルしたように思う。国際電話は他に日鰹連の
事務所やステラマリスの教会にもあったが、郵便局は
何度もサンキューしなくて良かったので、一番気楽で
良かった。パースからの電話は日本と時差がほとんどなくて、
かけやすいし、なぜか時間差もあまりなかった。
 65.映画の帰り
 パースへ夜の回の映画を観に行った。帰りの体験が強烈
だったので、何を観たかは記録も記憶もない。遅くなるので
自転車は持たずに出かけた。パースに電車で着いて、
バスに乗って映画館まで行った。このバス路線が行きと
帰りで道路が違うのだ。大阪の一方通行と同じで、
平行する幹線道路が2本で1セットになっているらしかった。
夜の11時近くに映画館を出てバス停に行って初めて気が
ついた。最終には間に合うはずだったが、正しいバス停が
どこだかさっぱり分からない。どういう訳か新聞で見つけた
その映画館は、ほとんど住宅街みたいな場所にあったので
方角も何も分からない上に人がいない。更にこんな夜遅く
白人じゃない男は当然警戒される。通りがかった車に手を
挙げたら、大げさによけて走り去った。ゲイのおっさんに
捕まったときより、もっとやばいと感じた。
そこへ来るときに乗ったバスの最終便がやってきた。
俺はあれこれしている内にバス停から離れてしまって
いたので、バスの前に飛び出して、両手を挙げて
思いっきり左右に振った。さすがにバスはハンドルを
切ってよけて走り去ることはなく、2,3メートル前で
停まってくれた。運転手一人でお客なし。知っている
限りの単語を並べて説明したら、若いお兄さんの運転手は
すぐに理解してくれた。乗るべきバスの停留所への道順を
丁寧に教えてくれて、急げと言った。サンキューを多分
3回くらい言って、走った。ギリギリで帰りのバスに
乗る事が出来て、電車にも間に合った。
 64.川沿いの電車
 一日休みをもらったので、電車に乗ってフリーマントルから
パースに出かけた。自転車用の車両があって、二人分の切符を
買って、1枚は自転車の分という事だ。スワンリバー沿を
走って美しい街、パースに着いた。湖のヨットハーバーには
モーターボートも何隻かあって、あれで通勤してるのなら、
アメリカの飛行機通勤よりかっこいいと思った。飛行機なら
時間という実用性があるけど、モーターボートは全くの
趣味以外、コストパフォーマンスは悪いしイイトコナシ。
うらやましい、贅沢だ。街中の公園にはリスがいるし、
人はあふれてなくて、ほんとに落ち着くすばらしいところ
だったが、戦争になったイギリスに帰るという人の方が
多いという事だった。人間のその土地への愛情というのは、
どこにその泉があるのだろう。街の丘にあるコモンウエルス
公園には、大木がいっぱいあった。この公園ができるより、
オーストラリアの建国より、ずーとずーと前からそこに
居た樹だ。夜になってしまい、死ぬほど広い公園の中で
迷子になった。道案内の看板が、うんーと高いところに
あって、しかも街灯がないので読めない。自転車を左手で
抱えて右手で前のタイヤを思い切り回した。発電機が
回って小さなライトが看板を照らして、やっと駅の方向が
わかった。
 63.パース
 ウエストオーストラリアの首都パース(Perth)は
めちゃくちゃきれいな都会だった。なにしろ湖のほとりに
でかい公園があって、その横にビルが並んでいる未来の
理想郷みたいだった。本船はその港、フリーマントルに
入った。少し内陸にあるパースの湖から海岸の
フリーマントルまでの川がスワンリバーという名前だった。
ブラックスワンの胴体が湖で南西に伸びた首がスワンリバー、
頭がフリーマントル。港町に住んでモーターボートで都会に
通勤している人もいると聞くと、それはうらやましかった。
あちこちの港には日本鰹鮪連盟の事務所があって、内地への
電話やいろいろ船員へのサービスをしてくれていたが、
もう一つ、ステラマリスの教会も親切だった。
日本にも海星という学校があるが、英語で言えば
スターアンドマリン、海の教会らしかった。世界中の港で
船員の世話をしている。スペインが世界の海に船を
送り出したときに一緒に広まって留まったのかも知れない。
この教会で船員相手のダンスパーティーがあって、
地元の若い女性が沢山参加してくれる。日本人は言葉が
苦手なので、あまりいなかったが、がんばって行ったのだ。
ところが、行ってすぐ、中年の頭の薄いおじさんが
話しかけてきて、我が家には日本の物がたくさんあって、
私はとても好きなのだとか言う。品の良いまともな人に
見えたので、特にきれいな女性もいなかったし、彼の誘いに
のって車で家に行った。本当に電気製品からおみやげの
人形までたくさんあって、楽しい家ではあったが、
広いのに照明が少し暗くて、何となく雰囲気に違和感が
あった。ソファーに座ると彼はすぐ横に座り、
話しながら俺の太ももの上に手を置いた。瞬間、
全てが理解できたので、立ち上がって帰ると言ったら、
彼は何度も済まないを繰り返し、送っていくので
心配するなと言った。ぶん殴って走って帰ろうかと
覚悟していたが、オーストラリアの郊外は、外灯もないし
方角もさっぱり分からない。かなりまずい状況だったので、
ちょっとばかりほっとした。白人社会ではゲイは珍しく
ないし、特に日本人の若者は好まれたのだと思う。
アメリカならゲイネットワークで西海岸から東海岸まで
ただで旅行できるという話がそのころあったが、
俺は残念ながらストレートなので無理だった。
 62.アデレード
 メルボルンを出航して西オーストラリアのパースに行く途中、
南極に一番近い都会のアデレードにも寄航したのを思い出した。
真夏なのにあまり暑くなかったように思う。背の高い建物の
記憶がないしギラギラの太陽も覚えていない。何か寂しい街の
印象が残っている、手紙をエージェントに頼まないで自分で
郵便局から出そうと、街でポストオフィスを探した。
暇そうなおっさんに尋ねたら、なんか「死んだ」みたいな事を
言っていた。「みんな死んでしまって今日は休みなのだ」と
したら大変な話なのに、ニコニコしている。聞いた話を頭の中
で復唱してみると、要するに普通はデイと発音するところを
ダイと言っているだけだった。
これがあのオーストラリア訛りのコクニーなのかと理解した。
シックス、セブン、アイト、ナイン。
 船での生活は港にいるときも、あまり曜日を気にして
いなかったので、日曜日に気がつかなかった。その日は
サンダイだったので郵便局は休み。晩飯の後片付けが
終わってから、歩いて下船した。街を散歩して、
何もないので、フィッシュフライを買って歩きながら食った。
とぼとぼと歩いて船に戻る途中、港が見え始めた街角で、
大阪のヤンキーみたいなお兄ちゃんが俺に声をかけて来た。
ちょっとイッているお姉ちゃんを二人連れていた。
我々に加わって夜を楽しもうと言っているようだった。
これが単にエッチを楽しむだけのプレイへの幸運な
お誘いなのか、美人局系の危ない罠なのか、短時間では
判断できなかった。エッチはもちろん好きだったけど、
それほど強い欲はなかったので、やばいことは遠慮する
ことにして、ノーとだけ言ってそのまま歩いて船に向かった。
ヤンキー兄ちゃんは、肩をすくめて女の子に、
彼はシャイなんだとか言っていた。
 61.メルボルン
 メルボルンはクリスマス。サンタクロースもいたが、
真夏のあの衣装は着ぐるみと同じでめちゃくちゃ
暑いだろうと思った。上陸は昼間ばかりだったので電飾の
記憶はないが、ツリーの飾りはあった。そんな真夏の
クリスマスの昼間、機関員の一番若いお兄ちゃんが
エッチに行くというのでついて行った。エージェントに
もらったメモを持ってタクシーに乗った。
オーストラリアにもそんなところがあるのだとビックリ
だったが、やはり内緒の場所だった。住宅街の小さな家が
建て込んだ日本と変わらないような場所で、家と家の間の
1メートルほどの路地を入って奧の勝手口のようなドアを
開けると、4メートル四方ほどのテレビをどかんと置いた
サロンがあった。サロンと言っても、ようするにソファーと
テレビだけの応接間だ。そこに50歳ほどのおばさん一人と、
若そうなお姉さんが4,5人座っていた。客はここでお酒を
飲んだりしながらしばらくおしゃべりして、気に入った人を
指名しておばさんの指示で奧の部屋に行くという段取りだった。
しかし彼は英語は全くできないので、いきなり一番かわいい人を
指さして、速攻で奥に消えた。日本人は皆速攻だったのか
おばさんも慣れていた。俺にもどの人にするか聞いてきたが、
俺は誇り高き船場のケチだったので、有料エッチは絶対に
しないことに、ほぼ決めていたから、表で待つと言って外に出た。
持っていたリンゴを道端で食っていたら、1個を食い終わる前に
彼は出てきた。いくら何でも早すぎると思ったが、それだけ幸せ
だったのかも知れない。
 60.ブリスベン
 全席指定なのに、通路に大勢座っている映画館を楽しんだ後、
次の港ブリスベンに向かった。こっちは大都会で貫禄のあるビルや
近代的な建物もあって、道路は広くてきれいだった。
クリスマスシーズンで飾りもちらほらあったが、女の人はほぼ全員
ミニスカートだった。日本では結構お歳の女性も膝上スカートの
時代が過ぎてツイッギーも忘れかけた頃だったが、ミニ以外に
何があるという暑さの中、オーストラリアは間違いなく
ミニスカートの国だった。緩い下り坂の歩道を自転車で引力走行
しているとき、広い車道の向こう側の歩道を歩いていたきれいな
お姉さんと目が合った。ギラギラの太陽に照らされて気持ちよく
日焼けしたミニスカートの白人の女性が、俺に微笑んでくれた。
俺も微笑んで、ただそれだけで、一瞬の事だったのに、
その後一週間以上気持ちが良かった。それからずーと覚えている
のだから、モナリザなんか目じゃないほほえみだったのだ。
 59.オーストラリア
 次の港はオーストラリアだった。お隣といっても海の上を
歩くように進む船にとってはかなりの距離があったように思う。
地図だとオーストラリアはでかいのですぐ近くにニュージーランドの
島があるように感じるが、大阪から台湾ほどの距離はあったと思う。
東側のダーウィン、ブリスベン、メルボルンと入って、西側のパース
からまたアラブに行くと教えられた。もうすぐ真夏のクリスマス。
最初に一番暑いノーザンテリトリーの首都であるダーウィンに入港。
首都といっても小さな街だった。第二次大戦で日本軍の空爆を何度も
受けたのに、対日感情は悪くなかった。日本軍の魚雷艇回天が港に
進入し、一艇が体当たり前に座礁して乗員が死んだとき、勇敢な兵士
として戦争中に港の見える丘で慰霊式をやってくれたのは、ここだった
ように思う。トライアスロンといえばニュージーランドと
オーストラリア。スポーツマンシップはスポーツにだけでなく、
生きること全ての基本にあるというのは、何度も感じた。
緑があふれる小さな街を自転車で走った。オーストラリアは砂漠だらけ
かも知れないが、大部分の人が住んでいる街は、やっぱり人と人は
くっついて暮らしている。港から自転車で行ける範囲に砂漠は
なかったので、映画館に行った。映画は一日2回、昼と夜。
全席指定なのでマチネーのチケットを先に買った。観た映画は
「ロキシーミュージック」だったと思う。ロック系の音楽という意味の
一般名称だと思ったら、バンド名で、映画館なのに観客がやたら
ノリまくって楽しかった。そのころ日本人が映画を観ながら
騒ぐなんてのはなかったから、すごく新鮮で、一人おとなしく
座っているのが恥ずかしかった。
 58.ミルクシェイク
 クライストチャーチの街を自転車で走った。街といっても
すぐに郊外になってしまう小さな都会だったが、丘陵や牧場
まで昼休みにでもちょっと出かける事ができて、かなりの
お気に入りとなった。出かけると必ずミルクシェイクを飲んだ。
うまい、安い、量が多い。丘から丘への風景画の中のような
広くて、空いた道を走り何軒か並んだ家の端にある小さなお店に
入る。ミルクシェイクの他に何があったか覚えていないが、
そんなお店は捜さなくても飲みたいときにすぐみつかった。
フレイバーがやたらあって、ずらっと並んだ中から選んで
注文するときに、バナナとバニラの発音の区別が難しい。
どうも発音よりイントネーションの方が大事なようだったが、
どちらもうまくいかない。チョコレートは言いやすいが、
そのころはあまり好きでなかった。ミントは嫌いだし、
その他のはそもそも何なのか分からないものが多かった。
それでも何とかバナーナのワンパイントを頼むと、大きな
ステンレスのシェイカーでシャカシャカとやって出してくれる。
蓋を取ってそのまま移し替えないで手渡されるので、
ステンレスは冷たい、重い。そしてうまい。
かわいい女の子と出会うはずだったが、羊のおしりを沢山見て、
自転車で走り回って、ミルクシェイクの飲み過ぎでお腹を壊して、
ニュージーランドは、バイバイ。
 57.ニュージーランド
 クリストバルの港はパナマより少し大きいようだったが、
まあ同じような街。待ち時間も少なく下船できる時間があまり
なかったので、サッと通過。運悪く運河はまたも夜中で、
眠くて見物できなかった。ケープタウンでは毎日2,3時間の
睡眠で20日間も遊んだのに、船の生活に慣れて新鮮な体験への
興奮が減っていたのかも知れない。
パナマからニュージーランドは赤道を越えてひたすら海の上を
歩く毎日。遅い本船は走らない。クライストチャーチの港は
日本船の入港も多く、ニュージーランドの中でも、とても
対日感情が良いとの噂で、あり得ない期待を抱く船員もいた。
接岸すると岸壁には沢山見物人がいて、日本語で話しかけてくる
白人が何人もいて、噂は本当だったのかと思ったが、
あり得ない期待は、やはりあり得なかった。
そのころはまだ調査捕鯨の問題もなく、日本語を勉強中の人が
港へ練習にやってくるパターンが多いようだった。
オーストラリアとニュージーランドはめちゃくちゃ検疫がうるさい
との話で入港前に局長に頼んで、無線でエージェントに
自転車1台上陸希望を連絡しておいた。
タラップを岸壁に下ろした途端、制服の検疫官が乗ってきて、
俺の自転車を調べだした。タイヤと泥よけの裏を生指でこすって、
泥の付いていないことを本当に念入りに調べてOKをくれた。
究極の水洗いをしてあったが、あの丁寧さを見て少し
心配だったので、ほっとした。
牧畜と農業が国を支えているのだから当然なのだろう。
 56.カナダの銀行
 次はまたパナマを通ってニュージーランドへ行くそうだ。
今度のパナマは東側の港クリストバルに入港して
順番待ちをする。そのころパナマはアメリカだったので
一万円札をドルに両替しておこうとセントジョンズの
銀行に行った。入港した際にバンスを頼んでおけば
現地通貨でくれるけど、自分でやってみたかった。
水商売と同じで前借りをバンスと言ったが、船員に
よっては遊びすぎて給料の振り込みがあまりない事も
あるらしい。銀行でカナダもドルだからUSドルと
言ったら、US?と聞き直したが嫌な顔はせず、
結構いいレイトで交換してくれた。そのころUSドルと
カナダドルは日本円に対して少しレイトが違ったが、
小銭は気にしていないようだった。もらった小銭はUSと
カナダが仲良く同居していて、街でも気にせず使っている
ようだった。銀行の窓口は映画に出てくるように普通の
服を着たおばさんやおじさんが並んで座っていて、
一人一人が何なりとお申し付けくださいという感じで
応対してくれる。日本では制服のお姉さんが分業で仕事を
しているが、俺は欧米式の方が好きだ。
どちらも人の応対はどんどん減って昔の話になって
しまったけど。
 55.空気ピストル
 セントジョンズの街でピストル型の空気銃を買った。
テンガロンハットなんかも売っている雑貨屋みたいな店で、
おっさんが一人店番をしていた。昼飯の後片付けが終わって
晩飯のスイッチを入れるまでの休憩時間に下船して、
街を散歩していて何気なしに入った。
デザインは競技用の空気銃に似ていて、おもちゃよりは
ちょっと高級な感じ。エアガンみたいに立派ではないけど、
スプリング式の本物の空気銃なので、性能は一人前の
空気銃だった。硝子のショーケースの中にあって、
何も注意書きがなかったので、多分買えるのだろうと、
おっさんにそれが欲しいと言ったら、取り出して俺に
手渡しながらヒロヒトはどうしてると聞いた。やっぱり日が
悪かったと思ったが、俺の英語では何とも言えないので、
卑屈にならないよう気にしながら、少しだけニタッとして
黙って受け取りお金を払った。カナダでも第二次大戦の
日本の大将は天皇ヒロヒトだという認識は理解できたが、
戦没者を追悼する日に空気銃を買う日本人の若造に
何を思っていたのか、ちょっと怖い気もした。
ピストルは航海中に船内で、マッチ箱を5メートルほど
先に置いて射的をして遊んだ。4.5ミリの鉛玉は
2缶ほどしか買わなかったので、贅沢な撃ち方は
できなかった。小学生の頃は大阪松屋町の
スポーツ用品店で、何の制限もなく買えた鉛玉も、
そのころは許可証が必要だった。それに空気銃を持つのに
免許証が必要だったし、ピストル型は競技者しか
持てなかった。つまり日本には持って帰れない
ということで、この航海の終わりに晴海に入港したとき、
東京湾に捨てた。しかしこの捨て方についてコック長に
珍しく文句をつけられたが、もっともな意見だったので
素直に謝った。つまり、複数の人間の見ている前で
捨てなければ本当に捨てたかどうか分からない。
その証明がないと、みんなの不安は消えない。
考えの足りない行動だったとかなり反省した。
船の場合、一度何かの不正で税関にマークされて
ブラックリストに載ると、入港の度に厳しい検査を
受けることになると言うことだった。
 54.ニューファンドランド
 ニューファンドランド沖は最高の漁場として
有名だったので、ニッスイ系の冷凍貨物船なら当然
行くべき港のセントジョンズに入った。
カナダの東の端っこにある半島だと思ったら、海峡があって
ニューファンドランドは島なのだ。そのまた東の端っこに
セントジョンズはあった。
北半球はそろそろ秋だったと思うが、紅葉どころか森や林を
あまり見なかったように思う。殺風景な丘陵地帯の印象が
残っている。自転車であちこち走ったが、おもしろそうな
場所がなくて、ただ一つ人が沢山集まっていく大きな建物を
見つけた。行ってみると野球場みたいにでかいスケート場
だった。靴を持っていれば無料のようだったが、そのころ
カナダドルは1ドル400円ほどで、多分50セントくらい
払って貸し靴で滑った。
街中には、赤いカーネーションの花で作った飾りがやたらと
置かれていた。母の日じゃないし何だろうと思ったら、
第二次大戦で死んだ兵士の記念日だと言ってたと思う。
秋にカーネーションというのも変だし、アメリカの
メモリアルデイは春だったので、違ったかも知れないが、
とにかく戦没者の何かだった。元敵国人の俺としては
居心地があまり良くない日にうろつく事となってしまった。
ただカナダの人は戦争に勝った御祝いとか、敵の行為の
残虐性を忘れないためとか、他の国で行われてる記念日の
性格は考えていないようだった。国のために死んでいった
人たちに愛情と尊敬をこめて、記憶にとどめる日なんだと
感じた。日本の靖国神社も外国から文句をつけられたら、
カナダと同じだとアピールすれば、少し理解されるかも
知れない。ちょっと違う気もするが。
 53.帰船ギリギリ
 朝、通勤の逆向きで空いた電車に乗って船に戻った。
なんと予定が変更されて本船は出航準備中だった。
予定の変更は俺の責任ではないのに、コック長の機嫌が
ひどく悪い。今までの皿洗いなら多分殴られていたと
思った。そもそもコック長が何時間かオーバーして
戻ったので俺のお出かけが遅くなったのだから、悪いのは
おまえだとは言わないで、無視することにした。
船では不帰船というのがあって、上陸して時間内に
戻らないのは最悪の犯罪的行為とされているらしかった。
船は一人の船員を待ったりしないし、乗り遅れた船員の
帰りの飛行機代は自前だそうだった。年配の機関員が
どういう訳かホームシックとしか思えない病気になって
内地に帰ったが、それも自前説があった。船は空荷を
極端に嫌うので、運ぶ荷があれば、どこ国の何をどこへ
なんてのは、ほとんど気にしていなかった。つまり本船が
日本国籍であることは、その航海の最後の荷が日本向けで
あるという意味だけだった。まるで流しのタクシー
だったので次の港がどこなのか教えてもらったのは
出航してからだった。次はカナダ。
 52.ジャズワークショップ
 晩飯は何だったか忘れたが、航海中なら寝ている時間に
なって出かけた。一度は行きたかったジャズの生演奏の
店を探した。神様のお導きか、すぐに見つけた。
ジャズワークショップの看板があって、
やたら分かりやすい。四谷のジャズ喫茶「いーぐる」
みたいに階段を下りる。「いーぐる」はレコードだったが、
もちろんここは生演奏だった。店の中はむんむんしていて
学生のコンパ会場みたいだった。日本なら演奏中は
お静かにで、そして指笛も歌舞伎のどめき屋のように
ルールを知っているプロしかできない雰囲気なのに、
ここはまるっきりリラックスして楽しんでいた。満員の中、
小さな丸テーブルを一つあてがってもらいロックを一杯
注文した。何回かお姉さんが来ても、最後までそれ一杯で
通したが、隣に気前の良いイタリア系のお兄さんがいて、
注文のたびにおつりをお姉さんにキープチェンジと
やっていたので、俺がいやがられることはなかった。
ハーバードの学生が長いテーブルを占領して、ビールを
バカバカ飲んでまさにコンパだった。ただし男だけ。
みんな飲んで騒いで、それでいていいフレーズの所は
ちゃんと静かになって拍手。プレーヤーも客もみんな
楽しそうだった。エレクトリックバイオリンをここで
初めて見て聞いた。あごで挟むのは同じだけど木製の
ボディーはなくて、足下にペダルがあった。
これでウイウイウイーンとギターのように泣かしていた。
一人ぽっちの客は俺だけだったと思うけど、
心のそこから楽しかった。
 51.ボストンの夜
 ボストンで夕方少し前、東京で友達からもらった番号に
公衆電話から電話した。ボストンに友達がいるから電話して
泊めてもらえとのお勧めを、本当にボストンに来て
しまったので実行した。電話口での台詞も英語でメモして
くれていたので、その通りしゃべった。女性の秘書らしき
人が出て、教えられた名前のオフィスだと言った。
だがしかし、やはり発音かイントネーションか、
多分両方が悪くて通じない。仕方がないのでややこしい
ことは止めて、名前の後にプリーズをつけたらすぐに
繋いでくれた。彼はいきなり日本語で話し出してくれた。
秘書の人もこういうのに慣れていたのだろう。ただし俺の
友達の名前は、なかなか思い出せなかった。
そういう予感は少しあった。厚かましさは俺とは種類が
違い且つ超強力だったから。だが彼は親切だった。
そのころはまだ、異国での同胞に対する援助が
残っていたのだとしても、こちらが大丈夫かいなと
思うほどの対応だった。彼は市内のここに住みたいと
90%以上の人が感じそうな所にある、映画に出てくるのと
同じイギリス風で4階建てくらいの並んだ建物の一つに
部屋を借りていた。表からは地下室になるのだけれど、
裏は広い芝生の庭と同じ高さだった。大きな洗濯機や
ボイラーのある部屋を通り過ぎると、裏庭に面して
彼の広いワンルームがあった。壁はレンガで、このまま
撮影に使えそうな、いい雰囲気だった。
彼は、今夜は彼女とデイトなので君はこの部屋を使え、
帰らないから明日は鍵をかけてポストに入れていけと
言って、さっさと出かけてしまった。
 50.ネバーマインド
物船皿洗いの航海誌 40年ほど前 世界をうろうろ 
遠くの港町でのエピソード 水曜日と土曜日に連載します。
まとめ読みしてくださる方は http://ryupo.com
 ボストンの昼下がり、ハーバードの学生街で大きな
喫茶店のような店に入って何か食うことにした。
カウンターの上に硝子の丸いお鍋で蓋をしたような
ケースがあって、中に菓子パンのようなのが入ってた。
それをちょうだいと指さしたら、すごく体格の立派な
おばさんがデニッシュかと言う。日本のデニッシュより
少し範囲が広いような気がしたが、とにかくイエスして、
コーヒーと一緒に無事食べる事ができた。
ケンブリッジにハーバード大学があって、
ケンブリッジ大学は、イギリスのケンブリッジに
あるらしい。ここはボストンでケンブリッジ市ではないが
ケンブリッジという看板があった。ややこしいが確認する
英語力はなかった。飯の後、人通りの多い交差点で信号待ち
をしていたら、道を聞かれた。白人の俺より少し年上かなと
いうお兄さんで、早口でどこかへ行きたいと言ってるよう
だった。突然だったし、白人が東洋人にアメリカで道を
尋ねるというシチュエーションにはなれていない時代
だったので、教科書みたいに、アイキャントスピーク
イングリッシュと言った。すると彼は、
ジャストスポークンと言いつつ、俺を指さした。当然、
俺には何のネタもないので言葉に詰まった。
彼はニタッとしてネバーマインドと言いながらさっと
信号を渡って消えた。
夕方はイタリア人のレストランで食べることにした。
あちこちにあって、形が決まっていた。鰻の寝床型で、
一番奧に厨房がある。奧に向かって右側が少し高くなった
カウンターでガムや菓子類やミニドラッグストア的な物を
売っていた。左側にテーブルが2,3組あって、そこで
飯が食える。値段の心配がなさそうな雰囲気だったので、
外食ならここと決めていた。東京のイタリアンは高そうだが
ここはラーメン屋みたいな店だった。何を食べたかは忘れた。
 49.ボストンの港
 グロスターはボストンの港だ。この町からボストンに
通っている人も沢山いるそうだった。船員は船員手帳
だけで世界中の港はOK。パスポートもビザもなし。
港の近くの街もOKというので、ここでも拡大解釈して
ボストンへ行くことにした。船員手帳は預けっぱなし
だから、身分証明書の類は何も持たず大都会へ
行く事になる。先にコック長が休みを取ったので、
36時間の休みを取ると出航まであまり余裕はなかった。
朝一番の通勤電車でボストンに向かった。電車の中では
朝からビール飲んでたりで混んではいなかったが、
日本の地方都市の通勤電車に近いような気がした。
朝の早い時間に着いたので、お店なんかはまだ閉まって
いるところが多く、まずはヨットハーバーに行った。
大阪の中之島みたいなところに桟橋があって、ヨットが
何隻か係留されていた。銀座裏の水路にもヨットハーバー
があったが、あそこはレストランにヨットが繋がれている
感じだった。しかしここのは本格的で落ち着いていて、
本物だった。誰も人がいなくてカモメさんだけだったので、
旅先では定番にしていたノグソをさせていただくことに
した。桟橋の先端から落っこちないようぎりぎりまで、
川にお尻を突き出して、向こう岸に並んだイギリス風の
古い建物を見ながら、朝のお勤めをした。
俺としてはずいぶん良い状態のが生まれたが、
潮のせいなのか川は流れていなかった。終わって河面を
見ると、真下に留まっている。できる事なら人が来る前に
流れて欲しかったが、確認しないでその場を去った。
 48.運河の機関車
 カナルには午後入った。観音開きの扉があって中に
入ると後ろで閉まる。水位が上がって、展望エレベーター
のように、船の周りの景色が広がって行く。
10メートルほど上がると前の扉が開き前進する。
このエレベーターは、幅が狭いので船はエンジンを止め、
4両の電気機関車が両側からワイヤーで引っ張って
移動する。これは観光客にはお勧めだが今の客船はでか
すぎて通れないのか、ツアーの広告は見たことがない。
皿洗いの旅は、一般では行けないところを見ることが
できるのがお楽しみ。登り3回、下り3回で向こう側。
太平洋の方がいくらか海面が高いそうだけど、何で差が
あるのか納得がいかない。自転のために海が東に押されて
いるのか、なんでや。そもそも海抜は平均海面から
測量するのだから、パナマのてっぺんの海抜はどう
決めるのだ。とか考えてるうちに眠ってしまい、夜中に
通った湖を見損なってしまった。
カリブ海側のクリストバルには、待ちがないので
寄航せずにそのまま通過。穏やかな海を大西洋に向かって
歩くように進む。本船は走るという雰囲気はないので、
海の上を歩いて目的地に向かった。カリブ海も大西洋も
太平洋もみんな同じ海。陸が見えない航海中は磯の香りも
しない。よく海の香りと言うけど、あれは磯の香り
であって、海のど真ん中ではにおいなんか何もしない。
陸が近づけばにおいで分かる。海の雰囲気は空の色で
変わるからお天気次第。空と海は一つのものだと
分かった。空が違えば海も違う。同じなら似ている。
どこまでカリブ海でどこから大西洋か、飯の支度を
しているうちに通り過ぎてしまった。
 47.パナマ運河
 次はボストンの港でグロスターだ。ロス港で何人かの
アメリカ人にアンケート調査したら、紙に書いた綴りを
見て、グロウシェスターやら発音がみんな違う。
アメリカは広いし、反対側の街の名前なんか興味がない
のかも知れない。まして日本と韓国の違いなんか知ってる
人の方が少なかった。
大西洋に出るためには当然パナマ運河を通る。本船は前の
航海でスエズを通ったので俺も1年早ければ世界一周
できたかもと思うと残念。太平洋側の街がパナマで
カリブ海側がクリストバルだ。パナマではいきなり運河に
入るのでなく、港で順番待ちをした。上陸もできたので、
船員は半舷上陸で街に出かけた。ようするに半分ずつ
交代で休みをもらう。俺とコック長は二人なので、
コック長が休みの日の夕食はカレーに決まっていた。
俺にはそれしかできないからだった。俺以外はほぼ全員、
お姉さんのところに出かける。パナマではそのための
建物が分かりやすく建っていた。
表からのぞいただけでも、かなりやばそうな施設で、
お姉さんも世界中の人種がそろっていそうで、
たぶん病気も豊富だと感じた。
エッチの事は俺の行った港ではどこでもジキジキで
通じるようだった。ケープタウンの街角で道の向こうから
大声で日本語のそれを言われたときはびっくりしたけど、
ここでもジキジキでOKだった。船員はタクシーに乗って
ジキジキと言えば連れて行ってもらえる。スエズに行った
航海の時はマルセイユに行ったので機関員のお兄ちゃんは、
タクシーに乗ってマドマーゼルプリーズと言って
OKだったそうだ。プリーズは英語だけど。
パナマで俺はアメリカ人ではなく現地の人が入る
レストランに入った。あれとこれとか指さすものを
大きなプレートに盛りつけてくれてたが、
値段の計算方法は分からなかった。日本人かと聞かれて
イエスと言ったら、とても珍しかったのか、おばさんは
にこにこと俺を観察していた。そして油でべたべたの
黄色いご飯を山盛りにしてくれた。日本人はライスが
主食の知識はあってもこんな脂っこいのはだめなのは
知らないようだった。全部お腹に入れるのにずいぶん
苦労した。
46.ゲイブルー
 エッチなフィルムを買ってきてくれとの指令が下った。
ビデオテープは世の中にはもう普及しつつあったが
本船にはなかった。特にエッチ系は8ミリフィルムが
主流だった。コック長が映写機を持ち込んでいて、
航海中に上映会をすることになっていた。
船長以下何人かからお金を預けられ、
ポートオブロサンゼルスの街に調達に行った。
ポルノショップと言う名前の分かりやすい看板の店に
入ると、風呂屋の番台みたいに少し高くなった所に
お兄さんがいた。何歳か聞かれて25と答えたら、
ちょっとにらんでOKと言いながら顔で奧を示した。
ドア1枚分の入り口を入ると、ショーケースの中に
フィルムのパッケージが並んでいた。選ぶにもタイトルの
意味さえ分からないし一刻も早く店を出たかったので、
ここからここまで20本みたいな注文の仕方で指令を
果たした。出航するとすぐ上映会をした。この手の映画は、
大勢でお酒を飲みながらケチを付けたりワイワイ野次ったり
しならがら見てもつまらない。一人で見るのが、妥当だと、
途中からおつまみを食べるのに専念した。
ところが1本だけ作品と呼べるのがあった。他のはみんな、
そのものずばりをただただ見せるだけで、ストーリーも
なにもなく、文字通りブルーな感じだった。
ところがそれはカメラワークや照明まで含めてすばらしく
洗練されていた。残念なのはゲイのフィルムだったので、
最初の5分ほどで上映中止となった。ストレートとゲイは
分けて売って欲しかったが、文句が言える立場にはないと
思ったし、誰も文句は言わなかった。それに他のフィルムは
何も覚えていないがあれだけは印象が強かった。
ロスかどこかの大きな街のビルの屋上から、
カメラがどんどん交差点の一つの信号機に近づいていく。
デジタルのない時代、あれだけの倍率で
ズームインするには、相当大きな望遠レンズを
使ったのだろうけど、それだけ見てもそこら辺の
あんちゃんがした半端仕事ではないと感じた。
だんだん一人のジーパンにTシャツの若者がアップに
なっていく。彼は信号機のポールを片手で持っていて、
そしてジーパンの太ももの付け根の当たりに穴が
空いていた。更に近づくと、穴から見えていたという
ところでコック長が止めた。
 45.泥棒
 船員の部屋から100ドルがなくなったと船長に連絡
が入った。港のエージェント経由でお巡りさんが来た。
私服と言うより普段着のオヤジが二人、パトカーを船の
前の岸壁につけて、英語でいろいろ聞く。
船長は船の運航や荷役に関する英語は不自由しなかったが、
それらの業界用語以外は全然だめだった。
本船にエージェントを招いてごちそうしたときも、
そのころまだアメリカでは一般的でなかった豆腐について
聞かれて、俺を呼びに来た。ミッションの高校大学
一貫校出身で他の船員よりはましだった。
 お巡りさんは、いやにあっさりと犯人は分かった
みたいに言った。署まで来てと言われて、本船で一番
身分の低い俺が代表としてパトカーに乗った。
署では署長さんに会って、けど俺はボケッと立っていた
だけでお巡りさんが何やら説明していた。
これから犯人のところに行くみたいな感じで
3階か4階だったかの所長室を出て階段を下りた。
次の階は広いワンフロアで、みんなそれぞれの仕事を
しているようだった。お巡りさんが一人を指さして
彼がナンバーツーだと言ったので俺は何気なく、
アイノー ヒズ ストマック イズ ザ セカンドと
言ったら、フロア中大爆笑だった。知らんぷりして
みんな聞き耳を立てていたのだ。
泥棒は本船に遊びに来ていた15歳くらいの少年だった。
平屋の外見は貧しいけれど室内は日本なら上等な家に
少年はいて、お巡りさんはすぐに奥から100ドルを
持ってきた。常習だったのだろう。証拠も何も関係なく
お札を俺がその場で受け取って事件は終了した。
100ドルはそのころ3万円。お金に対する感覚の違いは、
国によって正比例ではなく、1.うんと少額、
2.ポケットには高額 3.家が買える金額と分けたとき、
アメリカでは3はおおらかで1.2が以外と厳しいと
思った。100ドルは結構大金扱いだった。
 44.ロサンゼルス港
 ロサンゼルス港と言っても、大都市のロスから何十キロも
離れていた。東京都と横浜みたいな関係で、
ポートオブロサンゼルスなのだ。横浜なら文句はないが、
こっちはすごい田舎だった。港湾設備は立派でも町には
観光できるようなものは何もなかった。1日の休みを
もらってもどうするか考えてしまった。仕方ないので
ロングビーチまで自転車で行くことにした。ブリッジの
チャートを見て、方角を確認してスタート。
ビーチなんだから海岸沿いに行けば道に迷う事はないと
思った。途中で後どれくらいか白人のおっさんに聞いたら
10マイルと言った。15キロは走ったのでもう一度、
数少ない歩行者に尋ねたらやっぱり10マイルだった。
アメリカだもんね。細かいことは言わず、10マイルは
すぐそこと言う意味だろう。
自転車で行くやつなんかいないし。ロングビーチは大阪の
浜寺みたいに昔はビーチだったけど今は...だったのだ。
白黒テレビ映画のサンセット77のイメージで走ってたら、
どこまで行っても巨大なコンビナートでガックリ。
とりあえず街かなといえるところに来て、ロングビーチの
看板があったので、ビーチはあきらめて帰ることにした。
30キロか40キロは走ったので、帰りが大変と思ったら、
少し走ったところで後輪がパンクした。
とぼとぼと自転車を押して歩き出した。しばらくすると
前から来たパトカーが少し通り過ぎて、バックで
引き返してきて止まった。若いお巡りさんが一人乗っていて
どうしたと聞いた。パンクは英語で何というのか二つ三つ
思いついて迷った。面倒なのでタイヤを指さしたら理解して
くれた。トランクを開けて自転車を載せろと言ってくれた。
さすがアメ車、自転車は前輪をはずさなくても
そのまま入った。隣の席に座れとドアを開けてくれたので
ケツを入れたところで止められた。申し訳ないことに
彼の帽子を少しへこましてしまった。どこだと聞かれて、
ポートオブロサンゼルスの55番埠頭と言ったが、
通じなかった。ピア、フィフティーファイブ、
英会話のテストでこんな意地の悪い発音が出たら怒る。
文字を書くにもピアの綴りが怪しい。何通りか発音して、
55はファイブファイブにしたらやっと分かって
もらえた。何とか、街灯がつき始めた頃に船に着いた。
 43.漂流中は釣り    
 北太平洋上を航海中エンスト。天気がよくて
凪いでいたのでラッキー。しけた海なら、空荷みたいに
軽かったので転覆したかも知れなかった。
ディーゼルエンジンの部品の中の1本のシャフトが折れた
という事だった。エンジン部は機関員5人と
チーフオイラー、オフィサー3人、機関長の
10人だった思う。甲板も同じ10人でチーフの事を
ボースンと言っていた。ボートスウェインの略らしいが
意味は知らない。機関部は全員休憩なしで当直明けの
睡眠もなし。折れたシャフトは交換部品がなく、
チーフオイラーが溶接すると言う。しかし特殊な鋼鉄の上、
高速で回転するシャフトの中心をきちんと出して
くっつけるのは無理じゃないかと思ったが、彼は半日で
やってしまった。みんな何でもないように話していたが、
船は素人の俺には、素直にすごい事だと思えた。
修理の間、ふらふら漂流している船から釣り糸を垂らした。
航海中はいくら12ノットのめちゃくちゃ遅い船とはいえ、
トローリングのように沈むためのフィンのついた
仕掛けがないと、波にはねて魚は釣れない。
しかし海のど真ん中で10メートルや20メートルの
水面に魚はいないみたいだった。
世界の広い海に、まんべんなく魚がいるのではなく、
条件がそろったところに集まっているのだろう。
そこを探して世界中で漁場を開拓した日本人は誇りに思うが、
ちょっと獲りすぎたかな。
 42.そうめんつゆのダンス       
 この航海の荷が何だったか覚えてないが、なんか
軽かったようだ。船体の長さは100メートルちょっとで
前の方は全部冷凍貨物室、後ろ4分の1ほどにエンジン、
ブリッジ、船室なんかが集まっていた。スクリューを回す
モーターは一つだったと思うが、冷凍機の電源と兼用の
発電機とエンジンは2セットあった。
エンストで漂流するのはOKでも、発電機が止まって
零下20度の船倉の温度が上がるのは、
許されないことだった。そして荷が軽いと前がやたら
浮いてしまう。しけて海が荒れると、船底が
バンバンバンと波をたたく。
横波でひっくり返らないように、ひどいときは進行方向を
あきらめて波に直角に当たるように進むので、
大きなうねりを乗り越えると船底で海を
平手打ちしたように大きなショックが来る。
実際はこっちがたたかれているのだけど。たまにしけの中、
近くを2、300トンの漁船がすれ違うと、うねりに
隠れたり出てきたりで、小さな貨物船のこっちもか
なりひどいが、あっちに乗っていたら、食器は全部金属か
プラスチックじゃないと粉々だなと、ちょっと喜ぶ。
食器棚は上から一枚一枚落とし込むようになっていて、
しけても飛び出さないようにはなっていた。
テーブルも縁はみんな2センチほど高くなっていて、
揺れても滑り落ちない工夫がしてあった。
椅子も床にアンカーで固定できるようになっていた。
しかしテーブルに出したそうめんのおつゆは
固定できなかった。オフィサー用と肩書き無し用の
二つの食堂に、当直明けで寝ている人の分を除いて
15人分ほどの食事をセットする。その日はそうめんで、
人数分の小鉢におつゆを入れて並べ終わったときに、
ドーンとイッパツ、船底ビンタが来た。なぜか小鉢は
テーブルにくっついたまま、おつゆだけがぴったり
シンクロして10センチほど浮かんだ。そして船は
ローリングもしていたので、おつゆは小鉢の横に
きれいに並んで落ちた。
あんなに見事なシンクロナイズド液体ダンスは、
陸では再現できないと思う。
41. 次はロス
 すり身を積んで晴海に戻ったが3日か4日で出航だった。
俺は四谷の文化放送の坂を下りて左に曲がって一つめの
路地を右に入った所に四畳半を借りていた。
部屋代は会社から毎月振り込んでくれていたが、
いつ帰るとも言わず半年以上そのままだったので、
大家さんに挨拶くらいしたかったのに、
あまり時間がなくて会えず、手紙を残した。それから
部屋の前に置いていた自転車に乗って船に戻った。
彼女かなと思えるひともいたが、こっちも黙って船に
乗ったので、元気か、くらいの電話はするべきだった。
船食という業者が食料だけでなく、航海中に読む古雑誌の
束とか色んな物を持って来て積み込んでいく。船倉の荷は
規則で船員は運ばない。クレーンは船員が操作していたと
思うが、直に荷を扱う積み下ろしは港の人たちがやる。
彼らのことをステベドウと言ってたが、語源は知らない。
船では捨てることをレッコといっていた。
これはレットゴー アンカーで、錨を下ろせの意味だ。
たまに本当に錨をレッコしてしまって、
チェーンが止まらず全部海の中に沈めてしまう船長も
いるとの話だった。
一路アメリカへ。最初の港はロサンジェルスだそうだ。
飛行機は大圏コースという最短距離を飛ぶので、
地図を見るとアラスカの方を遠回りしているように見える。
船はメルカトールの地図で進むわけでもないと思うが、
方角に頼って走る割合がどうしても多くなるのか、
飛行機ほど大げさな北回りではなかった。
それでもハワイには全く近寄る事のない航路なので
ちょっと残念。
 40.転落者捜索
 独航船の船員が海に落ちたという。真夏といっても
オホーツク海だから、落ちたのにすぐ気が付いて船が
Uターンしても凍えていて間に合わないとか聞いたが、
法律なので24時間は捜索しないといけない。漁船員は
分厚いゴムのカッパと前掛けをしていて、水泳の達人でも
泳げないし、すぐに沈んでしまってるはずなのに、
海面を目で見て捜すのだ。
母船を真ん中に本船や独航船が横一列に並んで、
落ちたらしい海域をゆっくり田植えみたいに進む。
各乗組員は船を動かす人員以外全員甲板に並んで海を
にらむ。日が暮れるとめちゃくちゃ寒い。
甲板の船員は全員、風下側の舷側から海を見ていた。
風上側にもし浮かんでいたとしても発見できない。
けど本当は沈んでいるから同じだと、
顔で風を受けなくて済む方に集まって、義務だけ果たした。
漁を再開して底引き網に落ちた船員が入るかなと思ったが、
結局彼は見つからなかった。けれど独航船の甲板を洗う
太いホースは、海に落として次の日に僚船の網に
入ったそうだ。母船では魚のサイズを測る係の人がいて、
網ごとにサンプルのスケソウダラの雌雄とか長さや目方、
鱗を記録していた。普通は3年で妊娠するのに、
その海域のタラ人口密度が下がると2年で妊娠するやつが
増えてくると言っていた。どういうメカニズムなのか
互いに連絡しあっているわけでもないのに、不思議な
自然の仕組みだ。その夏、子持ちのスケソウダラはかなり
小さくなっていたので、全滅に近づいていたのだと思う。
大海原に落としたホースを偶然回収できるほどの
底引き網だから、その後のロシアが日本の漁船を
閉め出した事に文句は言えないと思った。
 39.トド
 コック長がドス以外にモリもなぜか持っていた。
2メートルほどの棒の先に付いた10センチほどの金具に
マグロ用の延縄が結ばれていて、獲物に刺さると棒だけ
抜けるようになっていた。
これで本船の周りを泳いでいたトドを狙った。
運悪くイッパツで首のあたりに突き刺さり、荷役用の
クレーンで甲板に引き上げた。暇つぶしにしてはあまりに
かわいそうな事件だった。しかし牛くらいあって、とても
素人が解体できるわけもなく、脂肪の厚さがどれくらい
あるのかも分からないので、肉を切り取ることもできない。
結局、コック長の命令で俺が髭と歯を1本ずつ切り取って、
後は海に捨てた。殺されたトドはお父さんだったらしく、
少し小さなトドが1頭と、ずっと小さなやつが2,3頭
寄り添って二日間ほど本船の周りをうろついていた。
グリンピースにばれたら絞首刑になりそうな話だが、
髭と歯は今も俺が持っている。
コック長に逆らうと、海の上で何を食わされるか
分からないから、船長でも文句をつけたりすることは
なかった。コック長といっても部下は皿洗いだけという
部署で、いじめられっ子にはかなり辛い職場だと思ったが、
俺の場合、身長も高いが態度もでかい上に、
会社から厳命を受けていたのでいじめることもできなかった。
彼は機嫌が悪くなると、食事の片付けが終わった後いつも
二人で食べるのに、自分の部屋に戻ってしまう。
俺は仕方がないので、肉を思いっきり分厚く勝手に切って、
一人焼いて食った。そういえばケープタウンに入港したときも、
まともな食材が無くなって、俺はストアの鍵を持っていたので、
勝手にミカンの缶詰を食べた。あれもうまかったが、
仕方がないのではなく、単に俺がずるいだけだったのかも。
 38.カモメ釣り
 母船では毎日何百トンものスケソウダラのすり身を
作っていた。船尾からは、マヨネーズに少しソースを
入れたような色の廃液が太い帯になって、海の中の川の
ように流れていた。それを目当てに、双眼鏡でも見えない
何十キロか先の陸地からカモメがやってきていた。
カモメも川のように大量に浮かんでいるので昼休みに
魚を釣ろうとしたら、テグスに何羽も絡まってしまった。
甲板に引き上げるとやたらでかいカモメで、立ち上がって
羽を広げて威嚇すると頭の高さは1メートル近くあった。
3羽ほどだったが、全員で一斉にげろを吐いて、先っぽが
カギのようになったクチバシで攻撃してきた。クチバシの
一撃は血が出るほど強力で、テグスをはずして逃がして
やりたいのになかなか押さえることができない。結局、
包丁でテグスを切って海に戻したが、足に絡まった
50センチほどはそのままになってしまった。
底引きの通った後に魚がいるはずがないから、
釣りなんかするのが間違いだった。
 37.タラバガニ
 ご遠慮くださいといっても蟹やオヒョウには分からない
ので、網にはかなり入っている。しかしソ連とのお約束で
獲る訳にはいかないから、選別して海に捨てていた。
ベルトコンベアが母船から海に突き出ていて、でかいカレイ
のようなオヒョウとタラバガニが落ちていく。
どういう訳か俺の乗っている貨物船の船長は横付けのときは
ビビルのに、うまく母船の横を流して行って、俺が竿の先に
つけた捕虫網を直径70センチほどに大きくしたようなので、
落ちてくるタラバガニをいただいた。
本船は母船よりずっと小さいので、母船のブリッジにいる
オブザーバーからは見えない。内地に持って帰れば、
オートバイなら買えそうなほどいただいて、さっきまで
生きていた蟹をご飯用の大きな鍋二つで湯がいた。
醤油も何もつけず、熱いのを我慢しながら、
エンジン(機関員)もブリッジ(甲板員)もみんな
ギャレイ(厨房)の後ろの船尾に集まって、
ガツガツ食った。うまかった。もう一生、あんなに新鮮で
大量でうまいタラバガニを食うことはない。
この話は百回しても唾が出る。蟹を食った後は、
次の接舷までカモメに覆われた海をのんびり流す。
母船とはサイズが違うので、風と波の影響も差があるのか、
何時間かするとかなり離れる。そこでエンジンをかけて
Uターンするのだが、休憩時間に俺も操舵させてもらった。
カモメ以外なにもなしのべたーとした海の上なので、
少々のミスは問題なしと超法規的解釈をして、
無資格の皿洗いが冷凍貨物船の舵を操作した。
左右のボタンをちょっと押したり長押ししたりして、
目の前の窓の上にある舵のメーターを確認しつつ、
方向のメーターもみて、指示された方位に船を向ける。
けど震える船長を内心ちょっと馬鹿にしていたのが大間違いで
あることが分かった。船は速度が遅ければ曲がらない。
速いと、舵が間に合わない。舵を当ててから曲がり始める
までにかなり時間差があるから、それを見越して
操舵しなければならない。
モーターボートのような小型船舶とはまるっきり違った。
従って蛇行が止まらなくなったので、あきらめて本職に交代した。
 36.オホーツク海
 そのころ日本船は、北海道の北側、千島とカムチャッカに
囲まれた海で根こそぎスケソウダラを取っていた。
2万トンだかの母船が海の真ん中で漂泊して、何十隻もいる
2百トンほどの独航船が引っ張ってきた底引き網の魚を加工
していた。一網何十トンだかをクレーンで持ち上げて底を
開くと、魚が母船の甲板をグワーと覆っていく。
俺の乗っている冷凍貨物船は、母船が加工して30キロの
すり身にした製品を受け取って内地に持って帰るのが仕事
だった。2千トンだったか3千トンだったかを積めるので、
1週間ほど母船の近くを同じように、スクリューを止めて
錨を下ろさずに風と潮に任せて漂泊した。毎日、母船に
横付けしてできあがった製品を積む。ニッスイの子会社
だった我が社の船長はみんなマグロ船あがりで、一生懸命
勉強して資格を取ったが、でかい船は苦手らしかった。
特にこの航海の船長は、気が小さくて、母船の船長が
大音量のスピーカーで、大遠丸船長何してるんだとか
怒鳴るので、横付けのときは毎日震えていた。
持たなきゃいいのに、俺が運んだコーヒーのカップと皿を
手にして、カタカタいわせながら操船の指示を出していた。
母船にはもう一人怖いのがいた。ソ連のオブザーバーが、
オヒョウやタラバガニなどの禁止された物を獲っていないか
監視していた。ブリッジから双眼鏡で甲板や底引き網を
一日中見張っているようだった。
 35.宗谷岬
 船検を終わって次の目的地はオホーツク海と掲示が出た。
海の真ん中だ。
当時日本の船団がスケソウダラを取りまくっていた海だ。
下田を出て太平洋を北上、北海道の北端、宗谷港に向かった。
1月7日に晴海を出港して南アフリカと紅海に行って帰って
今度は北。真夏になっていた。宗谷港で食料や水、古週刊誌の
束とか色々積んだ。
 コック長の命令で陸の上の公園の方に行って、クマザサを
取ってきた。料理に使うと言うことで、最初の半年航海の
じいさまコック長と違って、今回の人はお皿もプラスチック
から瀬戸物に替えて、包丁も沢山持っている。
中にはどう見ても鞘に入った「ドス」があったが、
元は短い日本刀を包丁に仕立ててもらったと言っていた。
一般的にはやっぱり、それを「ドス」と呼ぶと思った。
彼は小指が1本かなり短くなっていたし、線彫りの途中で
止めたような入れ墨もあった。陸で回状が回って板前が
できなくなって船に乗ったのだろう。甲板員にも一人、
免許取り消しで運転手ができなくなって乗船したのがいた。
このコック長は前の航海で部下の皿洗いをいつものように
いじめたため、晴海に入港した際にそいつが海へ
飛び込んで逃げようとした事件があったそうだ。
そのため会社から今度何かあったら船に乗せないと言われ、
行くところが無くなるので、俺はいじめられないことに
なっていた。多分、いじめようとしても俺はそういうのが
好きというか、不正に立ち向かう正義の味方ごっこを
するのが趣味だったので、問題はなかったけど。
コック長は、前は皿洗いに洗わせていた腹巻きのサラシを
自分で洗って機関室の横の通路に、鯉のぼりみたいに
干していた。エンジンの熱ですぐ乾くようだったが、
同じ下着でもおっさんのは感じが悪い。生まれて初めての
北海道が北の端で、港から歩いていける範囲のちょっと
だけしかみれないのは、もったいなかったが、
二日目には出航してオホーツクに向かった。
 34.リバイスはリーバイス
 下田の宿舎では、屋上に干しておいたジーパンが盗まれた。
学生時代は、まだリーバイスとは呼ばれてなかったリバイスは
大阪にはあまり売ってなくて、神戸まで買いに行った。
普段はビッグジョンかキャントンで、学生会館の売店で
1000円しなかった。
バイト1日800円の時代に2000円もしたリバイスやリーは
高級品だった。卒業して半年で親父の会社を辞め、その半年で
貯めた16万円と梅田の駅で根性で拾った7000円、それから
友達からリッター40円で100リッター買ったガソリン券を
もって東京へブルーバード3S−P510に乗ってやって来た。
四谷若葉町の文化放送の前の坂を下りて突き当たった神社の下に
車を停めて部屋探し。次の日、四畳半、日当たりゼロ1万円の
部屋に荷物を置いて、車を大阪まで持って帰り、バスで東京へ
戻った。上智大学前の土手のベンチに座って朝日新聞の就職欄を
みてそれから飯田橋の職安でおもちゃ屋を見つけ、ぬいぐるみの
デザイナーを始めた。そして第一次パンダブームが終わった
あおりで、たった1年でそれを辞めて船に乗ったのでお金が
なかったから、リバイスはやっと買った大事なジーパンだった。
管理人のおっさんは弁償しますと言ったが、自腹で払いますと
いう言い方がいかにも卑屈だったので、そんなおっさんから
お金を取るのは自尊心が傷つくような気がして、
いらないと言った。
 33.船検
 下田に入って荷を下ろし、船はドック入り。宿舎があって船員は
一週間ほど待つ間、そこに泊まるか休みを取って帰るか、近くの
ホテルで奥さんと過ごすか、いろいろ。やっぱり下腹部の病気で
もめた人もいたらしい。俺は宿舎に泊まって次の航海を待った。
降りるには早すぎるし、次はパナマらしいと聞いて、行ってみたく
なっていた。下田での一週間の途中、俺より若い機関員と二人で
横浜へ遊びに出かけた。彼のいとこだったかが牧師の学校に行って
いるので会いに行ったのだ。しかも女性だった。
女性牧師のいる宗派もあるのだとは知らなかった。
ミッションスクール出身なのに勉強不足。彼女は白のブラウスに
黒いスカートで、すごくかわいかった。若い船員と牧師の勉強中の
かわいい女の子。青春ドラマの脚本が書けそうなシチュエーション
なのに、何も起こらず、あっさりとバイバイ。
 32.マラッカ海峡
インド洋から南太平洋に向かう途中で赤道を越える。赤道祭りというのを
やったように思うが、コック長がお汁粉に冷凍餅を入れたか、そんな程度
だった。そのころのテレビでは、餅つきまでやって盛大なお祭りを
していたが、ブラジルへ移民するのでもなく、行ったり来たりの貨物船では
祝うほどのこともなかった。地図で見れば狭い狭いマラッカ海峡で、
同じ大遠冷蔵の僚船とすれ違う事になった。昼間だし天気も良かったので
ブリッジに上がって、手を振ろうと海を見たが何も見えない。
無線で船長同士は話しをしているし、レーダーにも映っていたが見えない。
あれだと言われて双眼鏡を借りたが、やっぱりゴミだった。海は広いぞ。
この海には海賊が出ると言うことだったが、奴らもその道のプロなんだと
納得した。獲物を見つけて追いかけて停船させて、ネズミの背中から象の
背中に乗り移るようなことをするのだから、結構大変だったろう。
本船はよたよた最大12ノットで下田に向かっていた。
荷を下ろした後、そのままドックに入って毎年義務づけられた船体検査を
受ける。ただし、貨物船は荷を捜して世界中をうろうろするので、
1年が半年延びてもOKらしかった。
 31.ケープタウンの梅毒
 日本に向かってインド洋を西から東へ走っているとき、ちょっと
問題があった。船員はみんな港でがんばるので、病気をもらうことが
多かった。本船もケープタウンでペニシリンがなくなった。
それで局長がメスルーム(食堂)にコンドームを山積みにして、
下船の際は持って行くようにとのおふれが出ていた。
ところが甲板員の一人がケープタウンの病院で梅毒の診断を
受けてしまった。俺は皿を洗うのも彼のを別にしてゴム手袋を
着けたり、結構面倒なことになってしまった。結局帰ってから
日本の病院で診てもらったら、何とも無くて言葉の食い違いだろうと
言うことになった。何でもかんでもイエスイエスと返事する癖が
そのころの日本人には多かった。とは言っても淋病くらいはいただいて
いる人が多かったので、内地の港に奥さんが迎えに来ていても、
ホテルで別々に寝る事になり、色々問題が起こることもよく
あったらしい。
 30.ペニシリン注射
 エンジン、つまり機関部のワッチも2人セットの3交代。
朝飯の時、オイルの兄ちゃん、つまり若い機関員が目の周りを
黒くしていたことがあったが誰も話題にしない。機関長も船長も
気にしてないみたいだった。と言うより船内のけんかはタブー
だったのだろう。マグロ船では、日本刀を持った船員が漁労長の
部屋に押し入ったとか恐ろしい話も聞いたが、本船では表面的には
平穏だった。アカバで積んだ清水はひどく濁っていてそのままは
飲めなかった。しかもシケると200トンのタンクがかき回されて
底に沈んだ泥がまた戻ってくる。日本の水は世界一だと当然ながら
思った。アカバのエージェントは雨が降ったので水が濁ったと言い訳
していたが3年に1度の雨がたまたま降らなかったら、きれいだった
かはあやしい。航海中の風呂は海水。大きな浴槽の隣に小さな清水の
お湯が入れてあったが、茶色のお湯なのでどちらをかけて上がるか迷った。
次の港まで1週間以内でタンクの清水が多めだと、海水風呂は終了との
船長指示が出る。マグロ船は400トンの船に何十人も乗っていて、
しかも一番大きくて良い場所を冷蔵庫が占めているので、造水機で作る
飲み水以外は海水だと聞いたけど、洗濯はどうだったんだろう。
風呂はオフィサー用とぺーぺー用の二つあったが、掃除はどちらも
皿洗いの俺の仕事であった。湯を抜いた後、海水をぶっかけて
デッキブラシでこするだけで簡単なものだった。あと船長、機関長、
局長の部屋掃除も仕事である。局長というのは通信士長で事務長で
薬の管理もしていた。23人の船には船医は乗っていない。
淋病の船員は自分でペニシリン注射を打っていた。
 29.ローリング30度
 とにかくマグロを積んでいることだし日本に帰れるらしい。
1年に1度の船検もオーバーしているので、きっと帰るぞ、
と船員が言っていた。晴海を出るときはケープタウンへ行って
帰るだけのはずが寄り道ばかり。
日本へは紅海から寄り道なしで帰ったので長い航海になった。
海の上でも船員には土日の休みがある。
しかしどこにも行けないので陸に着いてから、まとめてとるか、
大体は次の出航まで日数がないので買い上げになる。
陸の労働者には禁止されている休日の買い上げが、船員はOKだった。
甲板員と機関員の合計6人は休みの日は働かないでウダウダしていた。
ブリッジはオフィサー1人と甲板員1人がセットで3交代ワッチ。
舵は、映画に出てくる丸いやつでなく、左右のボタンだった。
それもダイヤルでセットされた方向にオートで進む。まだGPSは
無かったが、ジャイロで位置は正確にわかるので、六分儀は遊びで
やっていた。夜のワッチの時に暇つぶしに行くとずいぶん歓迎された。
総勢23人の固定された環境で話題はすぐに尽きる。
そこへ別世界から紛れ込んだよそ者が行けば、3回目4日目の
同じ話ではなく、初めての話題を楽しめるのだ。本船のローリング
最大角度記録は45度だとか聞きながら、しけた海を左右に
30度以上揺すられながら、オモテから100メートルほど後ろの
ブリッジの窓まで飛んでくる波しぶきを眺めつつ、コーヒーカップを
揺れに合わせて、シーソーの真ん中に横向けに立ってバランスを
取るようにして大きな声でしゃべりまくった。
 28.屋根無し映画館
 港に入るとほとんどの船員は、お姉さんの所に出かけるが、
オレは映画を見ることにしていた。ゴジラを見たこともあった。
アカバでは典型的な勧善懲悪ダンス付きのインド映画と似たような
構成のを観たように思う。映画館のチケットは3種類あって
後ろほど高い。間には柵があって一番前では子供が騒いでいる。
俺はここでは金持ちなので一番後ろの席だったが、みな公平に
屋根がない。映画が始まるときスクリーンの左端にあった月が
終わる頃には右側に移っていた。座席は金属製で夜しか上映しないし、
雨は少ないので問題ないのだろう。雨は3年降ってないと言って
いたが、前々日降ったことが後で分かった。アラブではこの程度の
話の食い違いは気にしない。
 30年以上も前のことで、アカバの荷は何だったのか覚えていない。
アラブにはクウェート、ドバイ、アブダビにも行ったが、みんな
オーストラリアから上等の牛肉を運んだ。石油のないヨルダンに
肉は持って行かなかったと思うしマグロを積んでいたはずだ。
マグロは内地向けで下ろさないし、積む値打ちのある荷なんか
無かったと思う。そもそも貨物船の予定は次の港までしか
分からなかった。空荷で走らないように会社ではあれこれ知恵を
絞って荷を捜す。各地のエージェントと連絡しあって双六を進める。
日本を出ていつ帰れるかさっぱり分からなかった。
 27.AK−47
 兵隊達はイエス、ノーもウイも何も通じない。身振りで、
みんなが持っているライフルを見せてくれと言った。
一人が自分のを俺に手渡してくれたが、すぐに取り返して、
カートリッジをはずしてからもう一度渡してくれた。
ほんの一瞬、実弾入りのAK−47、ソ連製突撃銃を
手にしたことになる。めっちゃくちゃ、気のいい連中だった。
対岸のイスラエルは冬なのに真夏みたいなリゾート。こちらは
戦場の前線で冬の軍服を着ていたが、言葉も通じない見ず知らずの
外人をトーチカの中に入れてお茶を飲むんだから、マジな戦争に
なっても多分役には立たないだろう。イスラエルもヨルダンを
まともな敵とは考えてなかったのだろう。町の中を走るアメリカ製の
ジープには、兵隊さんが色んな国のお下がりライフルを持って
乗っていた。あれじゃ弾丸をそろえるのも面倒だろうけど、その後の
中東紛争でヨルダンが弾を撃った話は聞かないから、
OKだったのだろう。
 26.アカバのトーチカ
 ヨルダンは貧しい国なのかアカバの町はアラブとは思えない
田舎だった。港の岸壁に着けた本船のブリッジから双眼鏡で
対岸のイスラエルが見える。向こうの海岸ではビキニの
お姉さんが砂浜に寝転がっている。こっちの浜辺にはトーチカ
がある。この落差は何なんだ。トーチカの中には兵隊が
警戒任務に就いているはずだが、あのビキニが敵なのだろうか。
昼休みに本船の近くのトーチカを見学に行った。コンクリートに
のぞき穴が開いた本物のトーチカの中に本物の兵隊が3,4人いた。
冬だったと思う。寒くなくて俺は長袖のシャツにジーパンだったが、
彼らは塹壕のイギリス兵みたいにトレンチコートを着ていた。
俺は181センチだけど彼らは160ちょっとくらいで、コートが
ひどく長く見えた。歓迎してくれて中に入れと言う。
キャンプ中のボーイスカウトのようにも思えた。シャイを飲めと
車座に座ってしばし休憩。シャイは小さなウイスキーグラスのような
ガラスの器に氷砂糖いっぱいの紅茶を、わんこそばのように
入れてくれて飲む。
 25.紅海
マダカスカルの東の小島レユニオンを出航し、セーシェルを
かすめて北上。アフリカとアラビア半島の間にある割れ目に
入って行く。なんで紅海と言うのか、どこも赤くなかった。
毎日、昼飯の片付けが終わるとオモテに向かう。
オモテというのは船の一番前。舳先から足をぶらぶらさせて
手すりにもたれながら海を見下ろす。思いっきり力強い太陽と、
12ノットの風、俺の下に海が吸い込まれていく。
時々、ひものようなクラゲか海草か、なんか知らない生き物も
吸い込まれていく。エンジンは100メートルほど後ろにあるので、
足の下を流れる海と、大きく開けた俺の口をふくらます風の音だけが
聞こえる。
インド洋みたいにゴミは浮いてなくて、気持ちいい昼休みだった。
何日かかったのか全く覚えていない。時間のない空間だった。
モーゼはこの海をパカッと割ったらしいが、さすがその名残は
見あたらなかった。シナイ半島を左折するとスエズ運河。
右折するとアカバ湾だ。俺が乗船する前年は左折。
今回はヨルダンのアカバに向かった。
24.カジノ
 レユニオンのカジノでルーレットをした。
ちゃんと現金をチップに変えて、小さいけど本物。
飲み物を運んだりのきれいなお姉さんもいた。
小柄な何系か忘れたけど白人のお兄さんが派手に賭けて派手に
負けていた。オレはお兄さんと、赤黒を逆にして少しだけチップを
置くという、せこい手をやってみた。
30分ほどで1万5千円ほど浮いたので、お姉さんにチップを
少しあげて終了。やっぱりあのディーラーはインチキしてたのだろう。
次の日、一人で賭けたらいきなり負けだしたのですぐやめた。
オレは賭け事はだめ。宝くじも当たらない。
 23.小さな島
 レユニオンはマダカスカルのちょっと東、かなりでかい
地図じゃないと載ってないような小さなフランスの島。
俺が行った港の中で唯一のカジノ公認。ここでは中国人の
フランス料理の店がお勧めだった。甲板員のトメさんと
入った店はフランス料理なのに、奥では上半身裸の中国人の
お兄さんが丸い切り株みたいなまな板で料理をしていた。
なんだかわからないけどすごくフルーティーなおいしい赤ワインを
一本飲んでお腹いっぱい食べて、二人で二千円くらいだった。
そのころでも安いと思ったけど、ワインは特に穴なのだと感じた。
フランス人がたくさんいた頃のが残っていたのかも。
気温が高いから古いのは保存状態が心配かも知れないが、
好きな人は試す価値ありだと感じた。
 22.太陽と焚き火
そのときのエッチはそれ以前とは全く別の世界の出来事に思えた。
太陽と焚き火の暖かさが比較できないほど異次元の感覚だった。
きっとフランス人とマダカスカル人のいいとこ取りをして生まれて
きた彼女に神様が間違えて与えてしまったカラダなんだろう。
お泊まりの次の朝は静まりかえった街を走って港まで行って、
一番のサンパンで船に戻ってご飯のスイッチを入れた。
ご飯はプロパンで炊いていたので、朝は必ず時間通りにギャレイに
入る必要があった。昼の片付けが終わった後、お金を払いに上陸した。
なかなか彼女が見つからず晩飯の時間も近づいて焦りだした頃、
やっと会えた。後払いのエッチは彼女もたぶん初めてだったろうし、
もらえなくてもいいやくらいに考えていたらしく、すごく喜んでいた。
 21.フレンチハーフ
晩飯の皿を洗い終わって、すぐのサンパンで上陸。街をうろつくが
特に何かがあるわけではない。マダカスカルはテレビで紹介するような
ジャングルがおもしろいのであって、港は世界中どこでも似ていた。
都会か田舎の違いはあっても、エッチ系の言葉はどこでも同じ反復言葉が
通じたし、同じ臭いがした。そのころ この港には
奥地から稼ぎに来ているお姉さん達がたくさんいた。
お金を出し合って泊まる場所を確保して船員相手にがんばるのだ。
オレは23歳だというのに相変わらずエッチに金は使わん主義
だったので、立ち食いのうどん屋みたいなオープンカフェバーで
フレッシュジュースを飲んでいた。何日目かの夜、何回か顔を
合わせて話したことのある女の子が一人でオレの隣に来て一人かという。
この仕事をしている人たちは世界中、英語は少し話せる。
もう相手を見つけるには遅い時間で、オレは船に帰る最後の
サンパンまでギリギリだった。彼女が私はどうだと聞く。
すごくかわいいフランス人とマダカスカル人の混血でスタイルも
いいしオレより若かった。主義の方は全然気にせず破棄できたけど、
本当に文無しだった。お金がないと言うと明日でOKだと言った。
ホテル代も彼女が出してお泊まり。
 20.マダカスカル
 ケープタウンを出て日本へ帰りながら鮪を積むためマダカスカルに入った。
アフリカの東、インド洋の西の端の大きな島。
港の名前は忘れたが大きなのは一つだけだったと思う。やっぱり鮪船の
基地があって、ここはフランス語だった。東隣にレユニオンという小さな島が
あったけどそこはフランス領なのだ。第二次大戦の後もタヒチとかフランス領は
残っている。そう言えばアルゼンチンの沖にフォークランドというイギリス領も
あった。さて港ではカンカンという秤で地元の人が取った鮪の買い取りもして
いたが、どう見ても悪代官だった。あの年貢の升は二合増し、みたいな秤で
インチキしていた。本船は岸壁には着けず、港に停泊したまま、だるま船
みたいなので荷を持ってきてクレーンで積み込む。船員はサンパンで上陸。
便数は決まっているので半端な時間だと自前でタクシーのようにサンパンを雇う。
 19.サンセットブルバード 
 船が港を出る前の日、コンチタの店にお別れを言いに行って、
どういう訳か泣いてしまった。店のおばさんはジャストホーリンラブとか
言ってうれしそうだった。彼女のフルネームと住所を書いてもらった。
出航してから船員の余ったペソを買ってケープタウンから送ってやった。
ところが彼女の書いた住所の綴りを、勝手に間違ってると思って訂正して
出した。サンセットブルバードなのに青い鳥のブルーバードに書き換えて
出したので、ただでさえ現金の入った封筒は届かないと言われていたのに
きっとどこかに消えたと思う。ブルーバードの違いに気がついたのは10年
以上過ぎてテレビでサンセット77を吹き替えで見ているときだった。
 18.お泊まり
その夜は二人でお泊まりすることになってタクシーでホテルに行った。そのタクシーは
朝までホテルの前で待って船まで送ってくれて2ペソだということだった。全部コンチタ
の手配。ホテルの部屋はエアコン付きとなしがあって15ペソと10ぺソ。15ペソに泊
まったらコンチタの分がなくなったのに問題なしと言う。お店に言い訳できるのか心配だ
ったが、そんな複雑な英会話はできない。キスした後コンチタは部屋の隅のシャワーが出
るかも知れないスペースで、パンツを脱いであそこに何かを入れていた。ミックスジュー
スができないようにしていたのだろう。お互いにひどく幼くてぎこちないエッチを、思い
っきり抱きしめながら黙ってした。
 17.コンチタジョルダン
セブの港にもう一人売れ残りの女の子がいた。昼飯の皿を洗い終わって
岸壁に降りるとその子がいて、時制変化のない英語でお話をする。
全部現在形でしゃべって最後にイエスタデイをつけたら過去形なのだ。
コンチタは17,8歳に見えたけどたぶんもうちょっと下だったのだろう。
今日 夜 ナイトクラブ おまえと私 行く と言うのでOKした。
晩飯の片付けが終わって朝の飯をセットして、風呂に入ってから岸壁に
降りたらコンチタが待っていた。
 まず彼女の店に行った。一様所属する店があったらしく、夜は勤務中
なので店に相手を見せてしきたりを通しておく必要があったのだと思う。
鶴橋の焼き肉屋の隣のたこ焼き屋みたいな小さなバーだった。
ナイトクラブは二人用のテーブル席がフロアの半分、残りが踊るスペースの
ディスコ、そんな雰囲気だった。彼女がトイレに行っている間にボーイが
注文を取りに来てコーラを2本頼んだ。戻ったコンチタはいくら払ったか
聞くので10ペソと言ったら怒り出した。そのころの500円ほどだったと
思うが、コンチタはカウンターに向かって背中からメラメラを出しながら
歩いていった。タガログ語で怒鳴りまくって、8ペソ取り返してきた。
 16.子供たちの肌の色
 船の周りをうろつく14,5歳の女の子が、あまりにも子供で
誰も買わなかったら、何をおいてもエッチが一番の日本人船員の
はずなのに暇そうにしているオレに向かって私を買えと言う。
ノウと言ったらどうせそう言うと思っていたのか、にこにこして
私の家に来いと言った。
 ジムニーに乗って郊外へ向かった。港も途中も郊外もみんな
田舎には変わりなかったが人口密度がちょっと違った。彼女の家は、
塀に囲まれた敷地の真ん中に広場があり、その周りを中古のコテージ
みたいなのが取り囲む中の一軒だった。着いたとき、広場は無人で
どこにも人がいない。彼女が大きな声で何か叫ぶと子供がわーっと
湧いて出てきた。白人風や東洋風やら掟なしのミックスジュースが
4,50人いた。囲まれて意味不明の紹介を受けて、とりあえず
一番近くの男の子を払い腰で投げるまねをしたら、予想外に受けて
柔道の先生になってしまった。高校の授業で習ったけど段は取って
ないのに黒帯だと言って尊敬された。
 15.税関の時計売り
岸壁には鍋でもオカマでもなんでもあり。船の周りには子供の他に、
昼間から夜のお姉さんが何人もにこにこしてうろついていた。
暑いのに長袖を着た税関職員のおじさんは船に入ってきて両腕をまくる。
手首から肘までずらっと並んだ腕時計を見せて、みんなグッドウォッチ
だと売り込む。別の職員は子供が捕まえたべっ甲の亀を取り上げて
本船のコック長に売りつけようとしていた。
ぽん引きのお兄さんはオレに、あいつはインジェクションだと胸に
注射するジェスチャーをして、オカマでない本物の女を紹介すると言う。
オレは皿洗いでお金がないと言うと、えーマジかよ てな顔して
どこかへ行った。おまえはスペイン系かと聞くのがごますりになるらしく、
荷物の積み下ろしをするステベドウの監督のお兄さんがブリッジの前で
オレにセカンドかと聞く。船長とチョッサーつまりチーフオフィサーは
知っていたので、オレは三番目かと思ったのだろう。
ディッシュウォッシャーだというと露骨にバカ見て損した顔をして
立ち去った。オレは一番背が高かったし、母親の躾で俯いて歩くときでも
胸を張っていた。みんな私服なのでどこに行ってもオフィサーと
間違われたが、やたら堂々とした皿洗いだったのかも知れない。
14.セブの港
初めての港は太陽ーーーの街。フィリピンとしてはマニラの次らしいが貧しい街だった。
裸の子供達がデッキの船員に向かってコインを海に落とせとせがむ。
飛び込んで底に沈む前につかんで戻ってくる。それは正当な取引なのかも知れないが、
オレは第二次大戦後の話に聞いた進駐米軍に対する、
ギブミーチョコレートの世界につながるいやな気持ちを感じた。
それを同じ東洋人同士でしているのが特にいやだった。
が、子供達は全然逞しかった。そのころインスタントラーメンはセブの人達が
一日港で重労働して、一袋買える高級品だったので、
船員がデッキから岸壁に一つ投げると子供達がわっと飛びついて、
つかんだ子供はどこからか鍋とコンロを持ってきて、岸壁にうんち座りして、
兄弟なのか三人で分けて食べていた。
13.太平洋の初仕事
晴海から東京湾を出てすぐ太平洋、アフリカに向かって走り出した。というか歩き出した
感じで、ぼろ船は12ノットでのんびり進む。冬の太平洋は平らではなくていきなりよく
揺れる。最初の仕事でテーブルに食器を並べたが、ずーっと吐いていたので気持ち悪くて
頭を上げることができない。吐くために水を飲んで、コイの噴水みたいにきれいな水をシ
ューと吐いてまた水を飲んで、うつむいたまま頭の上から変な幽霊みたいに手を出して食
器をテーブルに並べた。飲んで吐いてを一日やって、工場の機械の中のような騒音の部屋
でくたびれて眠ったら、次の日からどんなに時化ても全く船には酔わなくなった。最初の
港はフィリピンのセブだった。
12.船員手帳
オレは東京のおもちゃ屋で1年間やってたぬいぐるみデザインを第一次パンダブームの終
了で辞めることになって、正月を大阪で過ごすため戻る途中、何となく鮪船に乗ってみよ
うかなと思って、鮪なら清水かと途中下車した。港まで坂をどんどん下って港の近くに来
ると、道路の角に大きな看板があって、日本鰹鮪連盟の事務所が近くにあると教えてくれ
た。乗ることになった貨物船は1500トンほどで、船員はほとんどが元鮪船。船長も高
卒なので23歳の大卒は本来なら問題外なのが、緊急事態なので乗ってくれと言われた。
役所は正月休みに入るが船員手帳は何とかするから、必要な書類を帰ったらすぐ送れと指
示されて、こんにちはから30分ほどで外国に行く貨物船の皿洗いになっていた。 明け
方、バスに乗ったときから6時間足らずで全く予定外の人生が始まった。
11.日鰹連
 本船が行く港には日鰹連の事務所があった。内地の家族に電話したり、現地の女性を招
待したダンスパーティーがあったり、日本人はがんばってるなと感心してそれから感謝。
船に乗ることができたのも日鰹連のおかげ。フルネームは 日本鰹鮪漁業協同組合連合会
だったと思う。オレが東名高速のバスを清水で降りて、そこが山の上なのにびっくりしな
がら港まで1時間ほどかけて歩いた日、日鰹連の清水事務所ではあと10日ほどで晴海か
ら出る冷凍貨物船の皿洗いの面接をしようとしていた。定員23人の船は船長でも皿洗い
でも、人数が足らなければ出航できない。なのにもうすぐお昼だというのに、朝一番が約
束のそいつは来なかった。焦っていたおっさん達はそこに入ってきたオレが、船に乗れま
すかと言ったので、即OKした。
 10.ケープタウン
 着岸してから積んできた冷凍肉を降ろし、冷凍マグロを積んで日本へ帰る。この積み降
ろしはどこの港でも現地のステベドウという作業員が行う。船の人間は一切触らない。法
律なのか条約なのか組合の取り決めなのか知らなかったけど世界中そうだった。ケープタ
ウンでは黒人のステベドウの作業を白人の監督が見張っていたが、この白人のおっさんが
ギャレイの入り口にもたれて、皿を洗いながらコーヒーを飲んでいるオレに向かって、に
こにこしながらやたら話しかける。何回もやってくる内やっと目的がわかったので、コッ
ク長に内緒でストアの鍵を開けてネスカフェゴールドブレンド250グラムを一瓶くすね
て、おっさんにあげた。アパルトヘイトもくそもなく、何回もサンキューを繰り返し、自
分の持ち場に戻って行った。
9.沖待ち
 ケープタウンの港に接岸する前、一週間の沖待ちをした。港に着いたのに岸壁の空きが
なかったのだ。奥地で洪水があったとかで、ヨハネスバーグからの列車が遅れていると
エージェントのおっさんが言ってたらしいが、遅れ方もさすが大陸、一週間にはまいった。
まともなおかずがなくなって毎日三食、佃煮と乾物だけだった。コック長のおじいさんが
インド洋上で、もうすぐ港だからと肉も野菜も思いっきりよく使い切ったのに、港の沖で
錨を降ろして双眼鏡でビルの街を見るだけの日が5日続いた。けど誰も文句を言わなかっ
たのは不思議だったが船乗りはそういうものかと思った。 船長が我慢できなくなってエ
ージェントに泣きついた。サンパンという小さな船で野菜や肉が6日目に届いて、その日
の晩飯はステーキだった。オレは自分用に勝手に分厚く切って食った。本当は通関手続き
の前にお届けはだめなんだと思うが、緊急と言うことで誰かがOKしてくれたんだろう。
 8.喜望峰
 接岸して4,5日目、船長がバスをチャーターして20人ほどでケープオブグッドホープへ
行った。右が大西洋で左がインド洋、目の前の先に南氷洋。バスを降りてからずいぶ
ん歩いて岬の先の方まで行ったら、砂浜までは急な崖を下らなければならなくて、オレ以
外は他の観光客もみんながけの上から、ただひたすらの海を見ていた。浜辺には映画に出
てきたイソシギみたいな鳥が群れていて、足跡のスタンプを押しまくっている。静かな波
がそれを消すと、競争みたいに団体でまたスタンプを押す。えさをとっている様子もない
し、ラインダンスの練習か遊んでるだけか、意味不明だったが、生きることにも意味なん
かいらないような、そんな時間が岬に流れていた。白い砂を持ってきたポリ袋に入れて、
波で手を洗って、深呼吸してから崖を登った。
7.ナイトクラブ
ビルの裏にある中庭みたいな場所へ行った。ボストンでも似たような場所があったので、
たぶんイギリス風の建て方なのだろう。隣とその隣もずっとつながったスペースがあっ
た。そこのベンチに座って彼女は、バッグからコーラの瓶の頭を3センチほど切り取った
のを出した。そこにお茶がらみたいのを入れてライターで火をつけた。初めて見るオレも
マリファナであることはわかった。煙を吸い込みながらオレにも勧めてくれたけど、たば
こも吸わないのにそんな気はない。一緒に帰ろうと誘われて家に行った。街をはずれてタ
クシーで10分ほど、貧しいクラスの白人住宅といった感じのベッドタウンだった。夜中
の2時頃だったと思うけど、お母さんがドアを開けた。娘の生業を知っているのか知らな
いのか、オレをなんだと思ったのか、非常に愛想が悪かった。当たり前だろう、白人じゃ
ないし。部屋の両端にシングルベッドがあって、とりあえずピンクじゃない方で寝た。次
の朝、言ってあった時間にちゃんと起こしてくれて、しかもタクシーが夜明け前なのに来
てくれていた。
6.お姉さん
ナイトクラブのお姉さんは、停泊中の船員とは出航するまで、それぞれ一対一で相手を固
定するしきたりだったようだ。オレは由緒正しい大阪船場育ちのケチなので、お金でエッ
チはしないしきたりを持っていたから相手なし。けれど船員の数よりお姉さんの数が多か
ったのか、あぶれているちょっと太めの彼女が、踊りながらオレを見てはにっこりする。
彼女たちはたぶん店から給料はもらってないので、このままでは生活に響くけど、帰るの
も自由。オレは皿洗いで貧乏であるとアピールしていたので、太めの彼女もオレを捕まえ
る気はなかった、と思う。それでも暇つぶしにオレに外に出ようと誘った。
 5.アパルトヘイト
アメリカ人は人種差別、イギリス人は人種区別、フランス人はなんや、と思いつつみそ汁
を作る。オレの仕事は飯炊き、みそ汁、皿洗いがメイン。その他、船長、機関長、局長の
部屋掃除と偉い人用と船員用二つの風呂掃除。航海中は海水風呂。23人で200トンの
清水を積んでるので、港が近づけば一週間ほど前から清水の風呂に船長命令で変わった。
晩飯の片付けが終わるとすぐにエンジンルームの真横の部屋に戻って即眠る。航海中は耳
元に置いた音の大きさだけが取り柄の目覚ましがわからないほど、エンジンの音がすごい
のに、停泊中は冷凍機のエンジンだけなので、あまりの静けさがシーンとうるさくて初日
は寝付けなかった。夜11時頃、2時間か3時間眠っただけでシャキーンと目を覚ます。
いい方のジーパンをはいてすぐお出かけ。ナイトクラブに行くとデッキもエンジンもみん
な来ていた。一様白人用と言うことになってるけど、お姉さん達はみんなオランダ系でイ
ギリス系はいない。イギリス系はお金持ちでこんな仕事はしない、の方程式は確かにあっ
た。デッキの甲板員もエンジンの機関員も停泊中はお姉さん達のアパートに寝泊まりし
て、そこから船に出勤していたので、店が終わればそれぞれ一緒に帰る。一番盛り上がっ
ている夜中の1時か2時頃、船長みたいな服のオフィサー1人と4,5人の水兵服のお巡
りさんが入ってきて、日本人だといって遊んでいた韓国船と中国船の船員を連れて行っ
た。俺たちでもしゃべらなければ分かり辛いのに、どうして迷わず引っ張っていったのか
不思議だった。韓国船のおじさんには文春とかの週刊誌10冊ほどでキムチの一斗缶と交
換してもらっていたので、ちょっとだけ同情したが、すぐ忘れた。
4.テーブルマウンテン
 昼飯の皿洗いが終わりタラップを降りて港を通り抜け街に出る。テーブルマウンテンに
のぼる。走ったり歩いたり、途中の家並みはあまり覚えていない。山のてっぺんは本当に
平らでテーブルだった。港を見下ろすはげ山の縁は立って下を見てる人もいたけど、オレ
は怖くて腹ばいでホフク前進して頭だけ空に突き出した。クイーンメリーは見えたけど、
本船は建物の陰で見えなかった。帰り道、くたびれたので車に乗せてもらおうとフランス
語をしゃべっていたカップルに英語で丁寧にお願いしたら、素っ気なくNoと言われた。
別の人に声をかける気も無くして走って山を下りた。誘拐された娘を追いかける
シュワちゃんみたいにジグザグの坂をショートカットして港に戻り晩飯のスイッチを入れる。
3. 南極観測船ふじ
 船にまた戻ってベッドに転がってどうするか考えた。疲れた時定期的に出る口唇ヘルペ
スが鼻の下でお目覚めの気配だったし、本船はペニシリンも使い切って無防備でもある
し、何しろ本当の女性が向こうから俺を誘うのがどうにも信じ切れず、勇気が湧かなくて
12時にはもう眠っていた。港にはクイーンメリーの他に100メートルほど離れて南極
観測船「ふじ」が入ってた。本船の船長機関長と三人で見学に行った。小さな冷凍貨物船
でも船長は船長、ちゃんと船長一行として扱われ、作戦室も見せてくれた。映画に出てく
るガラス板に海図の入ったやつもあったし、ローターのはずされたへりの格納庫やら、乗
組員のラーメンの箱がしまわれている通路の横に並んだ金網ロッカーやら、ブリッジやら
いろいろ見せてもらった。帰り際、案内してくださった自衛隊員のお兄さんに、紅白のビ
デオありませんかと聞かれた。あれば貴重なインスタントラーメンの箱を何箱かもらえた
みたいだったが、残念ながら本船にはビデオなどという最新機材はなかった。
(1974年)
2.クイーンメリー
 港にクイーンメリーが入っていて、テーブルマウンテンが夕暮れになるとライトアップ
される。オレが皿を洗い終わって町に出る頃、もう人は少ない。ビルの一階、イタリア人
のレストランに、たぶん甲板員のトメさんと二人でいた。隣のテーブルにちょっと毛の薄
いお兄さんと一緒にお姉さんがいて英語でしゃべっていた。オランダ系の人はアフリカー
ンスをしゃべるから、彼女たちは裕福イギリス系かも知れない。彼女が彼にオレのことを
なんかセクシーとかグッドルッキングとか褒めて言ったような気がした。それで日本でな
ら絶対あり得ないけど、おれは彼女と目を合わせながら、サンクスと言った。そして彼女
がにっこりして、そこではそれでおしまい。一度船に戻って、8時か9時頃一人で街を歩
いていてさっきの彼女とまた会った。今度は彼女一人で、おれは手を引っ張られて人気の
ないビルの奥へ連れて行かれた。一階と二階の間の階段の踊り場で何の味だったか忘れた
けど、食べ物の味が残った口とキスをした。本当に彼女は女なのか少しだけ心配だったの
で、確認のためキスをしながら右手を下におろしたら、うまくかわされた。彼女は、まだ
仕事があるので12時にもう一度ここに来いと言い、15分ほどキスだけしてわかれた。
1.かもめ
ケープタウンのメインストリート、ビルに挟まれて走る車の上をカモメが高速低空飛行。
一羽がスッと通り過ぎ、噴水の手前で水と一緒に急上昇。次の一羽は十字路を左に折れて
消える。そのころ南アフリカはアパルトヘイトで、郵便局の入り口も白人と有色人種では
別だった。日本人は名誉白人というめちゃくちゃ不名誉な名前をもらって白人用の店にも
入れたしタクシーにも乗れた。運転手はアフリカ人だったっけど。あのカモメは、やけに
堂々と飛んでいたので名誉白人だったんだろう。白いし。
貨物船皿洗いの航海誌
本ではなく、40年も前のことを何年か前に思い出しながら書いた、自分の思い出の
記録ですが、たぶん聞いたことのない話が多いと思います。
連載しますので、時間の隙間に押し込んでもらえると、幸せです。

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